市域の境

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 ここで、ほぼ二十平方キロメートルの市域の形状、つまり市境の性格について大まかにふれておきたい。明治二十二年(一八八九)に小平村が成立し、昭和十九年に町となり、同三十七年に市制が施かれたこの自治体は、その間行政域にほとんど変化がない(そのため、往時の小平市域を漠然と示すときは「小平」と表現することにする)。もちろん厳密にみれば、多少の変化はみられる。たとえば、
・昭和四十一年に認可を受け、日本住宅公団によって施行された区画整備事業で、大沼町四丁目及び花小金井四丁目の一部と、隣接する久留米町前沢団地の一部との間で行政区域の交換がなされたこと。
・昭和四十六年から、小平市と東村山市にまたがる土地に住宅公団萩山団地の建設が進んでいたが、この団地内は両市の境が不整形に入り組んでいた。住民の利便をはかるため、団地内の公道をもって両市を分ける形に変えた。
などの事例があげられる。また、都立小金井公園のように、小平市とその隣接自治体にまたがる施設もあるのだが、ここで市の形を概観しておく。
図1-7
図1-7
小平市の形。本文参照

 小平市に隣接する自治体は、北西から時計まわりに、東大和市、東村山市、東久留米市、西東京市、小金井市、国分寺市、立川市となっている(図1-7)。そして小平市の西は、ちょうど鳥のくちばしのような突起をもつ形となっている(同図A)。この突起の上縁は野火止用水の流れであり(同図B)、玉川上水からの分流が北東に向って伸びている。この突起状の線は、人工的な水の流れが画した市境になる。しかしこの用水の線をなぞる市境は、東に進むと用水からはずれ、東久留米市との境付近になると、なめらかな線を描かなくなる。ことに大沼町から花小金井にかけての境線は鋸歯状に入り組むものとなる(同図C)。これは江戸時代の開墾状況を反映したものであろう。こうした形状の入り組みは、ひとり小平市のみでなく、国分寺市や小金井市においてもみうけられる。土地割りをしていても、開墾の進捗がはかばかしくない土地に、周囲の様々な村から人が交錯して入り拓いた結果が境として定着したということであろう。
 市の東の西東京市との境は、「く」の字状の道で画されているが(同図D)、そこから南にまわり、南東部の境は、前述のように、都立小金井公園の中を通っている(同図E)。そして南東部には、玉川上水が境になっている地域が一部にあるが(同図F)、上水南町三丁目からは、玉川上水を含みこむ形で市域が広がり、上水の南側にいくつかの町が続く。上水南町、上水本町、上水新町がこれらになるのだが(同図G)、これらの町と隣接自治体の境の多くは、旧村(江戸時代の開拓の単位)の境でもあった。この地域の宅地化がすすむ前の航空写真を見ると、開墾単位の短冊(たんざく)割畑群の不整合線がはっきりとあらわれており(図1-8)、それを市の境が踏襲(とうしゅう)していることがわかる。ただし、こうした境の所で宅地化がすすんでいくと、宅地の形状は境の線をなぞるとは限らず、二つの市の土地の上にまたがる形で一軒の家が建てられ、そうした家が連なっていくことになるが、こうした場合、原則としては、その家の玄関口のある場所、あるいは主として利用される場所の土地をもつ自治体にその家は属することになる。かつての開拓境と現在の居住の都合とのくいちがいがそこにあらわれることになる。そして上水新町の西端からは、市境の線は再び玉川上水をたどる(図1-7H)。

図1-8

開拓の境と自治体の境の重なり。写真で二方向の矢印に沿って各々畑が地割りをされているのがわかる。この二方向がぶつかる不整合線(a-b)が、かつての村境であり、現在の小平市と国分寺市(戸倉)との境の線になる。cは五日市街道。これは昭和二十年代前半の航空写真のため、境の部分にまだ雑木林が残っている。国土地理院所蔵の米軍撮影航空写真から

 これが小平市の市境のありかたになる。玉川上水とその分流に画されるところ、かつての開墾境の入り組みを反映しているところ、境をまたいで施設がおかれているところ、旧村時代の境を踏襲しつつも、そこをまたぐ形で家が立ち並んでいるところなど一様ではないのだが、いずれも近世以降の人為の反映が基本となっている点では共通している。