現在、舗装された道を車で走ると、ゆるやかな高低としか感じられない場所も、少し前までは、そこに住む人にとっては厄介な自然環境のひとつとして存在していた。小平市は武蔵野台地のほぼ中央に位置し、市域には河川と呼ばれるものは石神井(しゃくじい)川上流と仙(せん)川上流があるだけなのだが(図1-10)、天神窪、平安窪、山王(さんのう)窪といった低地が散在している。これらは、巨人ダイダラボッチが富士山に向って歩いた跡だとの伝承が残っているのだが、ある程度の雨が降ると、こうした窪地には水がたまり、あるいは湧いて久しく引かず、人々の日常生活に支障をきたすことが度々起っていた。平成に入っても同三年十月上旬、ふりつづいた雨に地下水位が上昇し、JR新小平駅は土砂まじりの水に浸り、二か月にわたって不通を余儀なくされている。市域に特に大きな河川がなくとも、自然は今でも、時にそうした姿をあらわす。
図1-9 天神窪付近。青梅街道が先で少し低くなり、その先でまた高くなっている様子がわかる(2010.4) |
図1-10 市域南東部にある石神井川上流(2011.11) |
ほんの少し前の時代まで、日常の営みのなかで、人は自然の恵みを受けるとともに、それに包まれて生きることの厄介さにも、今より明確に、そして日々、向きあってきた。
小平をはじめ武蔵野の多くの集落は、関東ローム層という火山灰土の上に成っている。この土は適度な水分を含んでいる時はねばりもあり固まりもするのだが、雨が降ると、とろとろと溶けるような状態にもなり、またかわけば風で容易にまいあがる。冬は霜柱が立ちやすい。『小平町誌』の表現を借りれば、「過湿になると強い附着性をあらわし、耕具に多量のどろが附着して、非常に重くなり、作業がやりにくくなる」、また「乾燥しているときは軽すぎ」「極端に軽い砂土に似る性格にかわるから、耕うんに支障をきたす」土である。
現在でも畑の中を走る道に敷かれているカーペットをよく目にするが(図1-11)、霜どけの道はリヤカーや自転車の車輪を止めるため土を削ぎ落とすヘラが必需品だった。農家は庭に落葉を散らし広げたりムシロを敷いたりしていた。戦前は、冬に生徒一軒あたり一枚のムシロを持参させる小学校もあった。学校周辺の通学路やグラウンドの通路に敷き並べるためである。水田がほとんどなかった小平では、購入したカマスを解いてその片側の一枚を持参する生徒も多かった。霜どけのぬかるみでグラウンドは午前十時頃から五時間ほどは遊べなかった。
図1-11 畑の中の道に敷かれているカーペット 小川(2010.2) |
東に隣接する西東京市では、地域が共同で保持する葬式用具の中に竹馬を備えていたむらがあるという。霜どけの時期の葬儀の折、近隣にそれを早く伝えなければいけない時、竹馬を使うと足をとられずにすばやく歩け、効率のよい伝達ができるためである。こうした厄介(やっかい)さは小平でも似た状態だったはずである。
「(前略)小平学園の駅にげた箱があってね、ちょっとお天気が悪いと、ここいらは道がぐちゃぐちゃだから、駅まで長靴(ながぐつ)はいて行って、そこで普通の靴と取り替えて都心に出かけたりしたんですよ。棚があるだけの簡単なげた箱ですけど。置いといた長靴がとられるなんてことはなかったですね。(中略)昭和三十何年まであったんじゃないかしら。(後略)」
という昭和九年生まれの女性の言が、『小平ちょっと昔』におさめられている。
「戦前は、だいたい霜が降るまでは野良仕事ははだし。戦後も昭和二十七、八年頃までは皆貧しかったからはだしで畑に出ていましたね。当時地下足袋(じかたび)は高かったんです。一人役働いての賃で買えるか買えないかでした。だから地下足袋を持っている人も、穴があいて爪の先が見えるようになるまではいていました。だから皆寄生虫がひどかった。寄生虫の卵は爪の間からでも入るんです。」
これは大正十年(一九二一)生まれの男性の話だが、こうした耕土での野良仕事は、衛生上も大きな問題であった。このあとに述べる強い風も、寄生虫の卵を土にのせて屋内に運んでいたことが『小平町誌』に述べられている。昭和二十六年七月の「小平町報」には、小平市立小平第三小学校における寄生虫検査の結果を載せているが、六学年全十四クラスで保有者百パーセントのクラスもあり、最も低いクラスでも八十四・三パーセントである。これは小平のみでなく、周辺の多くの農村が抱える問題でもあった。