赤い烈風

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 なかでも人々をなやませたのは強い風とそれにまきあげられる土であった。
 仲間と小屋に寝ていて、朝、目がさめるとまわりに人が一人もいない。皆土埃の中に埋まっていて鼻の穴だけがそこにあいていた。あわてて土埃を払った。開拓時代のそんな笑い話が武蔵野に伝わっていたという。
 江戸初期のかな草子の随筆『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』にも武蔵野の風についての記述がある。風が土をまきあげ、人々はこの土煙を火事だと見まちがえ、あわてて手桶をもって騒いだというエピソードが記されている。ことに春先の秩父おろしと言われる強い北西風は、かわいた畑の上を吹き渡ると土をまきあげ、空がまっ赤になるほどであり、赤(あか)っ風(かぜ)とも言われていた。この風の強さを覚えておられる方は、まだ小平に多くおられる。
「赤い風です。何も見えない。家の中は土だらけです。障子をしめてもタンスの中まで入ってきます。」(大正十三年 小川生まれ)
「その季節はケヤキの枝がごうごうごうごう鳴りよった。土がまいあがって空が見えんのです。家に戻って縁側にあがると土がたまっていて足跡がのこりました。障子しめたくらいではだめですよ。とにかくタンスの中まで入ってきてますから。布団も着物もホコリというか土の匂いがついて。つむじ風もありました。やはり春先ですね。その風の中に入って大けがした人もいます。カマイタチ(つむじ風の中心の真空のところに肌がふれて割けること)で。学園東町の分譲地を春先に買いに来た人は、その風にあって、みな購入をやめていましたよ。」(大正十年 小川生まれ)
「春先、夕方に強い北風が吹きます。外が土の色でまっ赤になるんです。外が見えなくなるんです。野良仕事なんかできません。畑の肥料が減ってきた終戦の頃の土はよけい軽いから、風はその前の時代よりひどかったと思います。昭和三十年頃まででしょうかね、ひどかったのは。夜寝る時、まず、部屋をホウキで掃き出さんと布団も敷けないんです。」(昭和七年 仲町生まれ)
 小平の畑の多くに、ほぼ五畝ほどの区切りで植えられている茶は土どめを兼ねている(図1-12)。これは南北方向に土地割りがなされた畑であり、茶はそれを区切る形で直交して東西方向に植えられていて、北風、あるいは北西風に対しての防ぎになるのだが、その茶の根元に土が五十センチほど吹き寄せられていたという。

図1-12

風どめを兼ねて植えられている茶(写真中の短い縦の線)。小川町。右が北になる。国土地理院所蔵の昭和23年米軍撮影の航空写真より

 よほど風の強い時は、新聞でも取り上げられている。昭和四年二月二十日の『東京日日新聞』は、同十九日払暁から北多摩地方に吹いた強風について、「歩行も困難を感ずる程の烈風と化し(中略)赤褐色の土煙が大空深くとざして天日暗く一町とて隔てぬにゆき来の人顔も定かに弁じ得ぬ物すごい光景を現出した」として、府中、国分寺、小金井、小平の様子を述べている。
 小平の江戸時代の文書には、春のこの風によって火事が大きくなった旨の報告がいくつも見うけられる。例をあげてみると、
・天保六年(一八三六)三月十日夕六ツ時、薪小屋から出火。すぐに村内の者が駆けつけ消火につとめたが「風烈敷土蔵上屋物置穀櫃其上隣家徳左衛門宅」まで焼失。(小川家文書 E-1 12)
 この薪小屋からの出火は、火元の林右衛門の「口書(くちがき)」によると、「炉灰壱俵右薪小屋へ入置候処、在灰ニ火ノ気残有」これに強風が吹きかかったため燃出した旨記されている。(同E-1 10)この灰は肥料として用いるためのものだったであろう。農家はこうした灰を俵にとりおき、肥料に使っていた。俵に入れた灰は雨がかからぬよう薪小屋や軒下に置いた。時に火が消え切っていない灰が強風に吹きつけられて出火し、側の薪やソダに燃え移りボヤ騒ぎがおこっていたという。江戸時代の火事の記録は、散見する限り、物置小屋や薪小屋からの出火が多い(天保八年(一八三八)の例 小川家文書E-1 13。天保十四年(一八四四)の例 同E-1 16。慶応二年(一八六六)の例 同E-1 26。万延元年(一八六〇)の例 同E-1 24。同二年の例 同E-1 26。安政五年(一八五八)の例 同E-1 22など)。一端母屋に入ってしまえば目の届きにくい付属舎が火元であるだけに、乾いた季節の強風は火事を誘発するものでもあった。昭和三十年代半ばまで、消防団は分団ごとに、この取(と)り灰(ばい)の火の気の検査に家々をまわっていた。この文書に記されていることは、少なくとも半世紀前まで続いていたことになる。