ケヤキのトンネル

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 こうした強風も、耕地の減少とそれに反比例する形での宅地化の進展、さらに高層建築の増加また道路の舗装などにともない次第に弱まっていった。
 そしてまた昭和三十年代以降、農家家屋へのそうした風を弱める役目も負っていたケヤキが切られて次第に減っていった。武蔵野の土にケヤキはよく合った。五十年ほどで目通り一メートルほどに育ち、用材などとして一代に一回は売ることができた。戦時中には船用の材として出されたこともあるという。しかし昭和三十年代に入ると、農家はケヤキを切ってもその後に新たに苗を植えることは少なくなっていった。また、農家の近くまで宅地化がすすむと、葉が落ちる、台風の時に枝が折れる、倒木の危険があるといった苦情が寄せられるようになり、次第に切り倒されるようになっていった。こうした大きな木を切る人をソラシという。まず、大きな枝を切り下ろし、その後安全な方向に幹を切り倒した。小平にはその頃までソラシが二、三人いた。そうして逆に、こうした木々の保存運動がおこるようになったのは昭和五十年頃からのことであるという。
 かつて農家は大きなケヤキに囲まれていた。母屋の前にはカシの木も植えられていた。屋敷森の内に入ると、冬はその外よりもあたたかかった。ケヤキは夏には葉を繁らせて木陰を作り、冬は葉を落として陽光を呼びこんだ。落葉は堆肥に、枝は燃料に用いた。青梅街道はそうしたケヤキが両側から枝を張り出し葉を繁らせてトンネルのようになり空が見えないほどだったという。夜はいっそう暗く、子ども達は夜になると外に出なかった。街灯がかぞえるほどしか設置されていなかった戦前は、提灯をつけて歩く人もいた。ただ、両側から伸びるケヤキの影が切れる道の中央だけは月夜であれば月の光が届き、人々はそこをたどって歩いていたという。こう記述してくると、自然に包みこまれた暮らしといった趣があるのだが、しかしこれは一方で前述したように、日常生活の中で「自然」がごくありふれた、そして厄介なものとしても存在していた時代のことになる。
 雑木林が切られ、そこに新しい住宅ができ、他からの入居者が入る。しかしあたらしく入った人たちは、近くにある雑木林を、できれば残してほしいと願う。しかしまた隣接地に葉を落とす木があれば、その伐採を望むことも多い。住民の「自然」に対する認識もそうした矛盾をはらむ形で宅地化が進展してきた。市内を歩いてごく自然に目につくもののひとつは、直径一メートル近い樹木の切り株と、樹木の姿にしては少し不自然に枝を剪定されてあちこちに立っているケヤキの大木である。
 大町桂月の『東京遊行記』の「第二十 三宝寺池」の一節「武蔵野は、風当りのつよき処、農家すべて、風よけに森林を帯ぶ。(中略)武蔵野には遠望して、社寺かと思はるゝまでに、森林を帯ぶる農家多し。」と描写された時代、そして赤い烈風のために野良仕事もできなかった時代と現代とでは、小平の地域社会のなかで「自然」という語のすわり具合は必ずしも同じではない。
図1-13
図1-13
小川町竹内家のケヤキ。樹齢300年以上といわれる(2009.8)

図1-14
図1-14

保存樹木のプレートをつけられたケヤキ。保存樹木は、平成24年6月現在で総計1,237本。うちケヤキは545本。次いでイチョウ173本。カシ145本となっている 小川町(2011.6)