都市近郊の農業

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 そして食糧供出の時代がおわり、社会がある程度落ちつきをみせてきた昭和二十年代末頃から、小平の家々の生計のたてかたは、農業の面だけでも一戸ごとにといってよいほどのこまやかで多様な展開をみせる。ある家は養鶏に、また養豚に、また蔬菜(そさい)類に、あるいはスイカに、あるいは野菜の種(たね)の出荷に、と様々な選択のもとに農家経営をすすめた。作物の出荷も、あるいは数軒の共同で、あるいは個別で行い、そのため出荷先の市場も一定していなかった。これはひとつには、市域が大消費地である東京中心部と隣接しており、出荷相場などもこまやかな情報が得られ、それに応じて個々の対応が可能だったことがあるのだが、またこれには一面で小平の農業のあり方が反映している。次の昭和七年生まれの仲町のある男性の次の言葉によくあらわれている。
「小平はとびぬけて良い作物はできないけど、なんでもできます。一戸一戸のその時々の家族構成が違うから労働力も違う。でも五年、十年とたつと家族の労働力もまた違ってきます。それにあわせて各家が人手のかからん作付、かかる作付を選んでつくってきたんです。人手が少なくなったら人手のかからん作付を考えりゃいい。だから家が並んでいてもその裏の畑は同じものをつくっていないんですよ。」

図1-17
現在市内に2軒の草葺き家が残っている。その1軒。屋根にはトタンをかぶせている 小川町(2009.8)

 こうした状況は、受け手の市場からすれば安定した供給地とはいえず、農業地帯としての小平の弱点につながると指摘されていた。農家が手間賃を出して近隣の農家から人手を雇うことはあっても、農村地帯であればしばしばみられる、いわゆる「ゆい」や「手間がえ」の慣行が小平ではさほど残っていなかったことともつながってこよう。しかし、各々の農家が個別にこうした試行を始めた頃から、市域全体に宅地化の波が及んできた。
 もとより小平の宅地開発は、大正末期以降の不動産会社による学園都市計画にともなって始められたが、これはまだ分譲が雑木林や荒地の地域で始められたにすぎなかった。昭和二十年代半ばから進出してきた工場も、旧陸軍施設の場所や、農業経営にさほど影響を及ぼさない土地から建てられていった。
 小平が町から市に変わったのは昭和三十七年であるから、この時期はまさにそうした戦後の大きな変化が姿をあらわし始めた時期になる。多くの古老に、「小平が大きく変わったのはいつ頃からだと思いますか」と尋ねると、軌を一にしたように「昭和三十年代半ば」との答が返ってきた。小平の専業農家の数が兼業農家の数に抜かれるのも昭和三十五年のことになる。地域全体のなかにある農業への意識が、なにか変化をみせてもいたのだろう。そしてまた昭和三十五年と同四十年の五年間の人口増加率を国勢調査のデータによってみると、小平の場合九九・一パーセントとなっており周辺の自治体の中では最も多い(立川市二二・八パーセント、小金井市六六・九パーセント、国分寺市六五・三パーセント、府中市五四パーセント、東村山市七四・三パーセント)。変化の加速のつきかたも激しかったことになる。
 こうした変化のさまは『小平市史 近現代編』において詳細にとり扱われるであろうが、民俗的な習俗面において、たとえば出産の際、産婆がとりあげていた時代から病院での出産へ、あるいは土葬から火葬へ-これは小平市になって以降火葬がすすんだ-といった変化もこの時期が境目となるし、農家が日常的に白米のご飯を食べられるようになるのもこの頃のことであるという。それまでは麦七割に米三割ほどの、いわゆるまぜめしの食事が多かった。