ある古老の手記から

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 大正半ばから同後半生まれの方々の人生はこうした流れのなかにあった。
 以下は大正八年(一九一九)に大沼田に生まれた一人の男性が「自分史」と題したノートに書きつづった手記の一節である。これには幼少時の記憶がいくつも記されているが、最も古い記憶は次のようなことであるという。「小さい時から歯が痛くなるとお寺に行き、坊さんが本堂でお経を上げてくれて半紙を長三角形に折り、それを家に持帰り機織場(はたおりば)の柱に釘で打付け、歯が痛くなった時にその釘を金鎚で叩くと歯の痛いのが無くなったものだった。」ここに記されているお寺とは大沼田の泉蔵院のことで、「私の家では畑でとれた作物の初物は、家の仏壇とお寺の本尊様に上げる習慣になっていて、何時も私が持って行く役だった」という寺院である。
 右記の引用文は歯痛時のまじないについてではあるが、家の機織場が登場してくる。これは同家の奥座敷の前に設けられており、二台の高機(たかはた)が置かれ、この男性の母親と三人の姉が使っていた。当時ここで織られていたものはすべて自家用で、ビションマイ(クズマユ)をほどいて撚った絹糸と購入した木綿糸とを用いて布を織っていて、母親は染めも行っていた。
 かつて小平では村山絣が織られていた。これは文政期(一八一八-三〇)頃から始まり、天保期(一八三〇-四四)頃に地機(じばた)から高機に変わったといわれている。明治二十二年(一八八九)頃には、小平七百三十三戸のうち、機業に従事する家が二百九十三戸、一戸平均一年に三百反を生産していたという指摘がある。この手記の記述にみられる状況の背景には、そうした技術がまだ自家用のものとして残っていたことを示していよう。
図1-18
図1-18
かつての林と桑畑。これは大正12年(1923)当時のようす(「郷土こだいら」所収の図をトレースしたもの)

図1-19
図1-19
保存対象として市で保護されている雑木林 中島町(2012.4)

 このほか、彼の記録には幼少時の記憶として狐に化かされた話、狐の提灯行列を見た話、葬儀の折に献じられていた花輪が勝手に歩いた話などが列記されており、この世代の人たちがどのような世界にかこまれて生を受け育まれてきたのかの一端をうかがうことができる。なお、この記録については、この男性からの聞書きを註の形で補って巻末資料②として示している。