この記録の中には、自身が幼少時、家族の前から姿を消し、そのことが「鷹にさらわれた」こととして語られている一節がある。実はこの頃まで、子どもが急にいなくなる-いわゆる「神かくし」-は時々おきていたらしい。『小平ちょっと昔』に、明治二十五年(一八九二)生まれの女性の次のような話がある。
「商大(現在の一橋大学)があるところ、あすこはすごい山(林)だったの。まだわたしより先(年上)だったのかね、子どもが国分寺のおばさんとこへ行くって桃しょってね。小川の何番から国分寺へ行く途中でね、着物ばかりが木の上にかかっていたの。なんに食われたのかね。まったくね。」
同書にはこれと類似の話がいく例も紹介されている。こうしたことがおこり、語りつがれていく世界がそこにあった。
この世代は、家に子どもが多かった時代になる。小川に十二人の子が生まれた家があり、十二人目に生まれた女の子は、これでもう十分ということでトメと名づけられたが、その後さらに十三人目が生まれたという。しかしこの時代はまた、赤痢や疫痢などの病気で子どもの死亡率が高かった時代でもある。トメという女の子の話をしてくれた古老はそれに続いて、小川で十三人の子持ちの家があったが、そのうち三人の子しか育たなかった家の例も話してくれた。