太鼓の音

210 ~ 212 / 881ページ
 ただこれは、現在の古老の世代以前の時代が、古い民俗をそのまま伝えてきていたということではない。江戸、そして東京という都市は、近郊農村の暮らしのなかに、たえず都市的な要素を侵入させ続けてきてもいる。現代の小平の古老を、幼少時に関東大震災を経験した世代、あるいはその直後に生を受けた世代と表現したが、この震災は、今からふり返ったときに様々な意味で、ひとつの境目として記憶され、位置付けられるできごとかもしれないからである。つまり、現代の古老の話を基にして、それ以前の時代を推しはかることは、どこかに齟齬(そご)を生じることもあり得よう。
 井伏鱒二の『荻窪風土記』の冒頭に、大國魂(おおくにたま)神社の五月の祭りの太鼓の音が、この神社から東北東十三キロほど離れている杉並区の天沼(あまぬま)まで聞こえていたと話す鳶職(とびしょく)の長老が出てくる。府中市にあり武蔵総社であるこの社は第六章第二節で述べるように、小平ともつながりのある神社で、小平の南六キロ弱のところに位置している。この太鼓は、直径一メートル以上あり、野球のバットのようなバチで、大人の男が思いっきりふりかぶって叩く。この鳶職の長老は大正十三年(一九二四)に徴兵検査を受けたが、そのころ「府中大明神の大太鼓の音はまだ微かに聞え、お祭の当日は六の宮の御輿が出て、一番から六番までの大太鼓の音が聞こえたそうだ」。この音が天沼まで聞こえていたことは決して不自然なことではない。昭和四十九年に刊行された『大国魂神社の太鼓調査報告書』には、かつてこの太鼓の音は、南風が吹く時には新宿まで聞こえ、北風が吹く時は川崎(神奈川県)まで聞こえていた旨の記述があり、沼袋(ぬまぶくろ)(中野区)でも聞こえ、その音を聞くとおちつかなくなったという体験談が紹介されている。
 今回の調査で、小平の古老の方々に、大國魂神社の太鼓が聞こえていたかどうかをたずねてみたところ、どの方も一様に、聞こえていたはずがないじゃないかという表情で首を振られていた。生活をとりまく何かが違ってきて音を消していったのであろう。大気に包まれ響いている様々なざわめき、暮らしが産みだしているきわめて微細な塵芥(じんかい)の群のありかた、それらに影響される視界や聴界など、日常の感性を支えているあまりにも些細(ささい)で、あまりにもありふれているものは、特に定まった指標でもない限り、その移り変わりには気づきにくい。こと感性に関しては、ある変化の後は、変化の前のことがきれいに忘れられて生活が展開していくことも珍しいことではない。現代の古老のものごころついた時代の以前もまた、ごく普通の日常生活のみを見ても、この半世紀ほどの激しさは無いにせよ、大きな変化の波の動きのなかにあった。