混乱のなかで

212 ~ 213 / 881ページ
 そして、大正時代半ば以降に生まれた方を中心に、往時の小平の暮らしを聞いていると、おそらく最も一般化して伝えにくい形で語られる時代は、昭和二十年代、それも同二十五、六年くらいまでのように思われる。もちろんそれ以降の暮らしの変化も激しく、かつての農家はその激しい波に一戸一戸が各々に判断をし対応してのりきっていったことになるのだが、多くの家々が物資の配給を受けつつ、いわゆる闇物資にも頼ってのりきった時代は、暮らしを一般化する形での描写がさらに困難な性格をもっているように思う。
 たとえば、という形でしか示せないのだが、
・昭和二十二年のこと、小平の農家に生まれた人が市の南部の一角-当時は雑木林-に六畳と台所の、敷地五坪の家を建てた。その頃は新しい家を建てる時は役場への届け出が必要であり、その家に住む家族数に応じて家の広さが定められ、それに応じた建築資材の配給を受けることができた。一人住まいの場合は敷地四坪との基準があったという。その人は廃材を調達して、それを少し越える広さの家を建てたことになる。ある日、府中の北多摩地方事務所の人間がふらりと立ち寄り、ひと言「いい家ができましたね」と言って立ち去った。これは賄賂の請求だと思い、その人はあわててその役人の家に米を五升ほど届けてことなきを得た。この家は本家にあった古いガラスを用いたため、四坪の家用として配給を受けていたガラスは使わずにおいた。どこから聞きつけたのか、国分寺のガラス屋が来て三枚二千円で買っていったという。
・また別の人は、終戦直後、市域の北部に家を建てたが、自分の家族のほかに、本家の兄の子ども二人を同居人ということにして敷地を広くした。十六坪ほどの敷地の家が許された。八畳、六畳、四畳、五畳ほどの台所と風呂という間取りだったが、形の上での二人分の同居者の増員がなければ十坪ほどの家しか建てることができなかったという。その費用にと、本家の兄が一万円ほど資金を補助してくれたので、飯能で製材所を始めていた軍隊時代の上官を頼って木材を入手、トラック一台分の檜材を購入した。釘、ガラス、建具は配給で、各々、田無、吉祥寺、所沢の店から入手した。これは規定の配給券を店に持っていけば支給されるシステムなのだが、それにさつまいもや小麦を添えて渡すと早く支給を受けることができた。
 こうした状況は商品を売る店舗にしても同様だった。米、麦の配給のかわりにデンプン粉、砂糖、切干大根などが届くことも多かった。デンプン粉は保存すると虫がつきやすく、一般家庭ではきらわれたが、村山(東村山市)の水あめ屋ではこれを闇で購入していた。そのためデンプン粉を買い出しに小平とその周辺のみでなく、正丸峠を越えて秩父方面まで出かけた人がいる。トラックの荷台には、本来の商売の品であるソダを積み、その内側にデンプン粉をかくした。当時のタイヤは熱をもつとよくパンクした。峠道ではタイヤに水をかけて冷やしながら荷を運んだが、ある時は清瀬の踏切で警官に見つかり没収され罰金を払い、ある時は前払い金を踏みたおされ、といった日々だったという。