闇と配給

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 当時は、畳、釘、針、糸、地下足袋など日常の必需品の多くは配給か闇での入手に頼っていた。現在のブリヂストン東京工場の場所は、かつては陸軍の施設があり、戦後解体されて、その跡地には釘が散らばっていた。周辺の人たちはそれを拾いに行ったものだという。
 昭和十七年は衣料に点数切符制が実施された年だが、小平ではこの頃から食糧の買い出しや闇売買も行われるようになる。これは終戦後も数年続くのだが、西武多摩湖線は「買い出し列車」といわれ、よく警官が買い出しのさつまいもを摘発していた。
 また、小平では長野県からの闇米が多く出まわっていたというが、この時代のこうした話は枚挙にいとまがない。みな各々の才覚や伝手(つて)を頼りに必死に暮らしをたてていた時代ということになるのだが、こうした状況が次第に落ちついてくるのが昭和二十年代半ば以降のことになる。なお、前述した衣料切符が停止されたのは昭和二十五年七月であり、この月には味噌、醤油の統制も撤廃されている。
 戦中から戦後数年、小平の農家は供出に苦しみながら暮らしを維持してきた。市域内に分家をした二、三男や「来たり者」と呼ばれる新規定住者もまた、暮らしをたてるために様々な稼ぎを行っている。
 前述した五坪の家を建てた人は、青梅街道沿いの農家からの分家であり、小平にあった陸軍の施設から払い下げられた馬を使って運送業を始めている。物資不足の折から、逆に物品輸送業には需要が多かった。馬に馬車を引かせての稼ぎは忙しかったという。また、郊外に疎開していた人が都心に戻る時期でもあり、その引っ越しを頼まれることも多かった。馬車で半日ほどかけて市ヶ谷(新宿区)まで疎開家族の荷を運んだこともあるという。こうした稼ぎを十年ほど続けた後、馬車をトラックにかえてさらに運送業を続けた。