そうしたなかで、土地を手放さず農業を続けていくのか、見切りをつけて縮小するのか、続けるとすればどのような経営を選ぶのかという問いに農家一戸一戸が直面することになる。
「私の場合は土地を売らないでどう生き抜くか、その選択として養鶏を始めたんです」と昭和七年仲町生まれの男性が話していた。「十五年間これをやろう。そしたら先が見えるだろう。そう思って昭和三十二年に始めました。」彼は多い時には三千羽のレグホンを飼い、一日に鶏卵百キロほど出荷し、小平市内の病院や知り合いの商店に売っていた。最盛期には、小平に養鶏農家が二十軒ほどあったという。彼は収入の目安を自分と同年代の市役所の職員に置いていた。昭和三十年代後半は、彼の方が上だった。多い時は職員の五倍ほどの収入があった。昭和四十年頃に追いつかれ、四十年代半ばには追い抜かれた。養鶏をやめたのは昭和五十年である。それからもう泥まみれの力仕事はやめようと盆栽の栽培に転じた。
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昭和32年頃の鶏舎。竹と材木を使っての農家の自家製。間口6尺、奥ゆき1尺5寸。3段で、1段に6羽飼っていた。卵はこの裏側から取るつくりになっていた 仲町 飯山達雄氏撮影・寄贈 小平市立図書館所蔵 |
彼が養鶏を始めた年の一月の「小平町報」には、養豚研究会が組織されたこと、また、野菜栽培のための化学肥料の値が上がり、交通網の整備がすすみ、群馬県、埼玉県、東北地方から安い野菜が東京に流入し始めたことが記されている。そして昭和三十四年八月十三日の「読売新聞」三多摩版には「「団地」が「農地」を食っている」という見出しの記事が掲載され、翌年四月九日の「毎日新聞」には、小平市のブリヂストンタイヤ進出の様子を紹介し、「このために八十九戸の農家が一度につぶされた」と書いている。
昭和三十六年七月の「小平町報」に「農地転用はよく考えて」という見出しの記事がでている。その記事には、「土地を手放すにはそれ相当の理由があるわけでしょうが、しかし最後まで土地を持ちこたえた人が有利だということはいえます。」「それでは、土地を持ちこたえる(農業で生活していく)にはどうしたらよいのでしょうか?」「これはなかなか難しい問題で、はっきりした結論も出せませんが、とにかく自分で考え、生み出す以外にないようです。」といった結論にならぬ結論の文章が続く。
こうした状況を小川に大正十年(一九二一)に生まれた方は次のような表現で話す。「闇売りの時代も終わって、農家にはお金がなかったんですよ。家の修理もできない。屋根は雨漏りする。畳を替えるお金もない。農家が豊かになっていったのは、農地が売れるようになってから。それも農業委員会の審査があって、簡単に右から左に売れるものじゃなかったんですが。昔はね、農地というものはよほどのことが無い限り売ったり買ったりするもんじゃなかったんです。商品と同じように考えていいものじゃなかったんです。でも商品化されて売買できて娘を嫁にやる資金もやっとこさこしらえることができたんです。」