雑穀といも

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 小平での農業のあり方については第四章、第十章などでふれるため、ここではあくまで前述した流れにおいて、地域の概要を説明するための記述として、ごく大まかにふれておく。
 藩政時代の史料は、当時小平では、大麦、小麦、陸稲(おかぼ)、粟(あわ)、稗(ひえ)、キビ、ソバ、菜類、大根、荏(えごま)、胡麻(ごま)、さつまいも、里いもなどがつくられていたことを伝えている(表1-3)。幕末の頃から養蚕もさかんになり、明治七年(一八七四)には農家の半ば以上が蚕を飼っていた。同二十五年(一八九二)には小平に蚕種商を営む店もできている。現在、小平の古老の話をうかがうと、稗、キビについては、作付の経験はなく、大麦、小麦、陸稲、さつまいもがもっともよく語られる作物となっている。大正末期から昭和初期の頃、野菜、果樹、花卉(かき)、種物など、近郊農村的な作付を組みあわせて営農を試みる動きもおこったが、やがて戦争が始まると、供出義務のために、ほとんど麦とさつまいもの畑へと変わっていく。
表1-3 村明細帳等にみる作物(『小平市史料集第十九集 村の生活5 生業(農学・商売・林野)市場』より)
西暦年月村名作物
1713正徳3年8月小川村大麦・小麦・粟・稗・芋・蕎麦・菜・大根
1754宝暦4年11月小川村大麦・小麦・芋・荏・胡麻・蕎麦・粟・稗・菜・大根
1756宝暦6年10月大沼田新田大麦・小麦・粟・稗・黍・荏・胡麻、木綿類出来不申
1799寛政11年12月大沼田新田五穀之外、蕎麦・荏・胡麻・芋・粟・菜・大根・辛子等、畑え桑少々相仕立
1821文政4年5月小川村岡稲・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・荏・辛子・菜・大根・胡麻・大豆・芋類
1850嘉永3年8月鈴木新田田方晩稲、畑方大麦・小麦・粟・稗・大豆・小豆・芋・菜・大根・胡麻・荏・辛子
1857安政4年正月野中新田大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・芋・琉球芋・瓜・唐辛子
安政4年2月小川村小麦・蕎麦・薩摩芋・芋
安政4年8月大沼田新田田方中稲、畑方大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・荏・胡麻等
1859安政6年5月廻り田新田油実之類菜種、辛子種・荏種・綿之実無御座
1870明治3年8月大沼田新田産物蚕・薩摩芋・里芋
明治3年8月鈴木新田産物蚕・薩摩芋・里芋

 小平は、武蔵野台地の畑作地帯と位置づけられているが、水田が皆無だったわけではない。大沼田、回田(旧廻り田)、鈴木などでわずかながら水田はつくられていたが、農業全体の比率からすれば、細々としたものであった。
 自家用に陸稲をつくる農家は多かったが、陸稲は日照りに弱く、収量が不安定で平均して反当り三俵ほどであり、陸稲が少ない年は食糧を粟で補ったという。粟は主にモチにして食べた。かつての日常の食生活では、米は縁が遠い穀物だった。小川新田に昭和七年に生まれた人から、戦後働いていた横田基地で昭和二十五年にはじめて白米を食べ、世の中にこんなうまい食べものがあるのかと驚いた旨の話を聞いたが、多くの農家では水田の米が食膳にのるのは正月くらいだったらしい。
図1-21
図1-21
明治前期の地割図にみる鈴木の水田。小平では水田は大沼田、鈴木、回田にわずかながらひらかれていた。この図で太い実線は水の流れであり、それにはさまれるようにある小区画が水田。しかしあくまで畑の地割に従う形の内で拓かれている。「東京府北多摩郡小平村之図東之部」よりトレース

 麦とさつまいもはどの農家でもつくっており、どの家もさつまいもの貯蔵の穴を設けていたが、これは小川のある古老の言を借りれば、「リスクも少ないが収入も少ない」作物になる。さつまいもの間には麦を植えた。麦を刈ると次にさつまいもが育ってくる作付になるが、昭和初期、大学出の初任給が三十円だった時代に、いもと麦一反で六十円ほどの収入だったという。前述の古老の言を再度引用すると、「小平で大きな農家というのは、耕地が二町歩以上、三町歩以上は大百姓ですね。作代(さくだい)(作男)を雇っていないと耕作できない。一町二反でやっと暮らしがたつというくらい。それ以下だと水呑(みずのみ)。よその農家の手伝いもして暮らさなきゃいかん」ということになる。
 前述したように、大正後半生まれの方であれば、子どもの頃の思い出として養蚕の最盛期末期の記憶をもっている。上簇(じょうぞく)の時、コノメ(蚕を入れる竹製の器)の上の蚕の桑を食べる音が、波のように雨のように聞こえていたという記憶や、祖父とともに立川に生マユを売りに行き、祖父が売上げ金の五十円札をうれしそうに見せてくれたこと、父親がマユを売って稼いだ百円札を神棚にあげ、拝んでいた話など異口同音に聞くことができる。