旧小川村の氏神は、小川一丁目に祀られている小平神明宮である。これは小川村の開祖である小川九郎兵衛が岸村(武蔵村山市)から勧請して祀ったとされている。当初の社殿は現在のそれより北に四百メートル弱の場所、野火止用水の側に寛文元年(一六六一)に建立されたという。この社の祭りやその組織については第六章でふれる。
現在、この神社には、十二月三十一日の夜になると初詣のために人々が列をなして並ぶ(図1-27(上))。元旦が迫る時刻には四百人から五百人の行列ができ、氏子の世話役の人や警官が道に出て交通整理を行う。三が日の計は万単位の人出になるという。しかしこうした情景は往時からのものではない。明治末頃まで、小平では正月はひと月遅れの二月一日としていたが、それ以降一月一日に移し二月一日は次郎正月と称して一日だけ休むようにしたといわれているし、戦前まで氏子は、元旦のお参りは家によって未明に行くこともあれば、元旦の朝ゆっくりとでかけることもあり、正月の境内ははるかにゆったりとしたものだった。
図1-27 (左)小平神明宮の元旦早朝(2010.1) (右)同社の御守り売場(2010.2) 本文参照 |
この社の宮司は世襲で現在で十二代目になるという。先代は養子になるのだが、教員を兼務しており、先々代は医者も務めていた。現在その氏子は四百五十戸ほど。そのほとんどは青梅街道沿いのかつての農家かその係累になる。現在の宮司は昭和二十二年生まれだが、その幼少時から現在までの社務の変化もまた小平という土地の変化のさまを反映している。
「私がはじめて宮司の仕事をしたのは二十七歳のときですが、身にしみて感じることは、神社の日常の仕事が変わったことです。その頃は、ほんとに神社のお守りで、定まったお祭り以外は境内の落ち葉を掃いたりしておればよかったんです。子どもの頃の手伝いは、夕方ほうきを持って、父のうしろにくっついて境内を掃くことでした。今多い個人の御祈祷、厄払いとか車のお払いとかはほとんどなかったんです。まァ氏子の家でお子さん、お孫さんが生まれた時の宮まいりのおつとめはありました。七五三も昔にくらべたらずい分増えましたね。父は教員もやっていたんで、そのようなおつとめは日曜や祝日におこなっていました。
正月のおまいりも、今のように朝早くから長い行列ができるということはあまりありませんでした。御守りや破魔矢の売り場ももっと小さいもので、私が結婚した頃でも、小さなポリスボックスみたいな小屋に一人で詰めて、練炭火鉢を置いて膝に毛布をかけてすわっていて、自分のまわりの手の届くところに御札を置いて、窓をあけて御札を渡していました。その対応も今みたいに忙しくなかったんですよ。ほしい人が来られたらお渡しする、といった具合でした。」
現在、この神社では、元旦は若い女性のアルバイトを二十人ほど雇い、交代で諸々の社務を手伝ってもらっている。初詣行列の整理にあたる氏子の世話役も「列の整理をしていても誰も挨拶してくれん。第一知った顔がおらん」と苦笑するほど周辺の住宅やマンションの人たちが多く並んでいる。そうした人出もこの二十五年ほどのことであり、二十五年ほど前は、一時期、神社側も初詣のサービスに小川駅、学園西町、東大和にかけての無料バスを用意していたという。
神社が準備する御札も、先代までは宮司自身が墨をすり、それを版木につけて刷っていた。その頃は御札の種類も一種類で、それ以外の御守りも、交通安全と普通の御守りの二種類ほど、それに百本ほどの破魔矢を用意する程度だったという。現在は社務所で三十種類ほどの御守り、御札、破魔矢がとり扱われている。これらは主に京都の業者に依頼しているという。
元旦を待って神明宮に参詣者が列をなす大晦日の夜、その斜めむかいにある小川寺(しょうせんじ)(小川村開祖小川家の菩提寺)では除夜の鐘を打つ順を待っている人たちが列をつくっている。この行列も多くは、旧小川村の人たちではなく、近隣の住宅、マンションの人たちや下宿の学生で占められている(図1-28)。こうした光景から、この四半世紀であらたな性格を得た寺社の姿がうかがえる。
図1-28 小川寺の除夜の鐘 (2009.12.31) |