図2-5 |
養蚕。条桑育中。桑の葉は大葉タイプ 飯山達雄氏撮影・寄贈 小平市立図書館所蔵 (1957年頃) |
養蚕については少し概観的にふれておきたい。養蚕は明治後期にひとつのピークがあった。『小平町誌』によると、小平では明治中頃の迅速測図に桑園の分布がみられ、大正十二年(一九二三)修正測量図の地形図から作成された桑園と林地の分布概略図にはかなりの桑園が見られ、農家が養蚕を主軸に農家経営していた様がうかがえる。そして昭和十二年頃より養蚕農家数は下降をたどる。桑園が広がっていたのは昭和十六、七年位までのことになる。現在、養蚕について古老からうかがえる話は子ども時代に親の手伝いをしていた記憶になる。
昭和三年の「小平村勢」によると、農家戸数七百七十五戸のうち六百五十戸が養蚕を行っており、農家の約八割強の家が養蚕を稼ぎとしていたとある。また、養蚕を行わない家にとっても、養蚕農家の手間稼ぎに雇われて稼ぎの場が増え、家計の足しになる収入を得ることができた。そして小平の養蚕農家の場合、所有桑園の反別は近隣村の農家の所有反別に比較するとかなり広かった。隣接する西東京市では明治二十六年(一八九三)の桑園反別の最も多い家は二町代で一軒、一町代が四軒であった(『田無市史第四巻民俗編』)。小平には蚕の種屋が十軒ほどもあり、なかでも小川の青梅街道と府中街道の交差する所にあった「根っこ坂」という屋号の蚕種屋は、近隣一帯にもその名を響かせていた。明治三十年代には百二十人もの使用人をおき、桑園は十町歩ほど持ち、養蚕技術指導員を養成してさかんな時には十五、六人もの指導員を近郷に派遣し、関東の養蚕普及のひとつの拠点ともなっていたという。
各農家における養蚕経営は、それぞれの所有する桑園の広さと手間に見合う形で経営が行われており、一年に四回、春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕が飼育されたが、家によっては三回行っていた。養蚕はそれぞれほぼ一か月かかり、夏蚕の場合はやや早く二十二、三日で収繭できた。三回の蚕飼いでも麦作の収穫、さつまいもの植付などと重なって、農家は忙殺されたという。稚蚕期に密閉した部屋での飼育期間は子どもはその部屋に入るのも許されないが、桑を運ぶ、あるいは蚕がマユを作り始めるとヒキ拾いは子どもも手伝わされ、家族総出でかかった。また、経営規模の大きい家であれば、蚕雇いを頼み養蚕教師も頼んだ。年間の三回の養蚕の中で収量は春蚕が最も多く、秋蚕の二倍ほどの量を収穫した農家もあったという。
昭和十年代の家計の収益のなかで、百円というお札が農家に入る機会があるのはこの養蚕の稼ぎであったが、それは養蚕経営の規模と、その飼育をうまく成功させた家にのみ、その機会があった。回田のある農家では、昭和十年代前半頃に、この辺の多くの農家が一年間必死に働いて得るお金が三百円位だったというが、その三百円の約半分近くの百二十円を春蚕だけで稼いだ家があったという。この家では初めて業者から百円札を貰ったということで、近所の農家がその百円札を拝ましてもらいにいくと、百円札をお盆にのせ、床の間に飾っていたという話が伝わっている。
次に収支について補記をしておきたい。養蚕は、農家の経営規模に合わせて稼げるものではあったが、蚕の病気などで失敗すればその損失も大きなものであった。また、養蚕を行わない家でも近隣の養蚕農家へ手間稼ぎに雇われることで家計の足しに稼げるものであった。
「覚帳」の養蚕の収支は表2-5、6、7に示している。養蚕の収益の総額は八百二十一円三十三銭。この収益に対して養蚕にかけた経費は七十八円四二銭であった。その経費に占める大きなものは蚕種の代金で三十九円九十銭である。蚕の種は府中是政(これまさ)の大久保眞平という種屋から購入している。九月三日に春蚕種百グラムを十五円で、初秋蚕の種百グラムを十四円で購入し、十月九日には晩秋蚕の蚕種を七十八グラム、十円九十銭で購入していている。養蚕の経費のなかでマユ掻きやヒキ拾いにかかる手間賃よりもこの蚕種の購入額が大きかった。
同家は「百貫取(ひゃっかんど)り」の農家であった。百貫取りの農家とは、一回の養蚕でマユ百貫(三百七十五キロ)を収量できる農家のことを指している。そのため、飼育する蚕に与える桑の葉が充分あること、それだけの桑を作付ける広さの畑を持っていること、またそれだけの蚕を飼育する場所があることが条件としてあげられ、もちろん飼育設備が潤沢にできること、そして蚕飼いの最も忙しい上簇時のヒキ拾いやマユ掻きなどの作業時に人手を雇えることなども必須条件になる。この家には住居とほぼ同じほどの蚕室をニワの南に建てていた。百貫取りの農家は当然養蚕技術に長けているということになるが、それでも蚕飼いの時期には養蚕技術の指導教師をお金を出して頼んでいる。養蚕教師は特に蚕が糸を吐いてマユを作る時期には一日おきくらいに自転車で回ってきて、蚕の状態をみて指導をしていった。同家では国分寺に住む親戚の息子が指導員をしていたので彼に頼んだという。こうした養蚕教師はどこの家でも頼んでいたというわけではなく、主に百貫取りするような家に限られていたようである。
さて、蚕に食べさせる桑の種類を聞くと葉の細かな「十文字」、そして大葉の「御所」という品種の名前が挙がってくる。同家では桑畑は所有する畑でも自宅から遠い前沢分、久留米分に植えていたことは前述した。畑の境にも桑を植えていたという。使う桑の葉は全部同家の持ち桑で充分にまかなえ、余る分の桑葉もあり、七駄を四円で売っている。
次に養蚕のためにこの年購入した消毒と用具をあげる。蚕がまだ稚蚕(一齢から三齢までの蚕)の時期は、部屋に木炭を焚き暖かくして部屋飼いをした。事前に稚蚕を飼う部屋はホルマリンを噴霧して密閉し消毒をする。その消毒がすむとその部屋の設(しつら)えになる。蚕の竹ゴノメの上に載せる蚕ムシロを八十枚補充し、コノメに載せる蚕座(さんざ)にハトロン紙を二百枚購入している。ハトロン紙はよく使った。また上簇用の簇(まぶし)はワラの折簇を使用、それも十把購入している。蚕が大きくなると、蚕室だけでは間に合わず居宅の座敷から二階まで、蚕を飼ったという。