さつまいも

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図2-6
図2-6
さつまいもの苗床 飯山達雄氏撮影・寄贈 小平市立図書館所蔵(1957年頃)

 同家のさつまいも畑は約一町歩ほどあったという。さつまいもの苗床は大きなものを毎年作っていたというが、この年は作付用のさつまいもの苗が足りなかったのであろう、「覚帳」の出費の項で五月二十六日には「田無市にて薩摩苗二千本 一円三十銭」で購入している。さつまいもの品種は、昔は「金時」という品種専門に作っていた。その後「太白(たいはく)」、それから「沖縄」、次に「農林一号」が作られた。「金時」、そして内が白い「太白」は甘くておいしかった。終戦後の食糧難で供出の割当が来た時代には、うまいまずいにかかわらず量が必要となり、そこで作られたのが味は良くないが多収量できる前述の「沖縄」と「農林一号」であった。
 昔は雪が降ると、中野区から仲買人が自転車で飛んできたものだった。仲買人のことをナゲシといった。雪が降るとさつまいもの値が上がる。雪が降りそうな時には、仲買人が買いに来ることが分かっているので、事前に畑の穴にいけてあるさつまいもを、土がついたまま俵に詰めておくこともした。収穫したさつまいもは、畑に深さ一メートル足らず、幅が七十センチ位の穴を掘って、掘ったさつまいもを束にして入れ、上に麦カラをかぶせて霜除けにした。雪が降ると飛んできた仲買人は信濃屋といい、昭和十二年のこの「覚帳」にもよくこの名前が出てくる。さつまいもの売渡しは同家では信濃屋が最も多く、注文分のさつまいもを入れた俵は大八車-昭和初年以降はリヤカー使用-で家の前の東京街道まで運び出しておいた。すると仲買の信濃屋がトラックで取りに来た。さつまいもはだいたいそういう売り方をしていたものだという。
 当時の東京街道はトラックなどの交通量はきわめて少なく、道の脇の方は常時農家の麦の干し場になっていた。ことに麦の乾燥時には家のニワだけでは足りず、東京街道にずっとムシロを並べて干してものだという。
 さつまいもは養蚕に次いで収益が多く値も安定していた。さつまいもを売る時期は一月、三月、四月で、四月下旬に売り切っている。この収益は総額五百二十七円二十八銭である(表2-5・6)。出荷したさつまいもの総量は二百十八俵と四十六駄である。「覚帳」の一月二十三日には「三十九円也 甘藷拾駄 信濃や」と書かれていて、総額の約六割をこの中野の信濃屋に出荷している。その合計は百四十九俵+二十五駄で、収益は三百二十八円九十五銭であった。また立川の□ニという仲買には全部で六十九俵と十六駄を出荷、百七十九円八十三銭の収益があり、また、同じ仲買人に売った三月二十日の記帳には「四拾四円四拾銭 405甘藷拾駄竹印 外ニ梅印弐俵20 花印弐俵60 立川□ニ」とあって、この小さな数字は何を意味するのか分からないが、竹印、梅印、花印のさつまいもを売っている。竹、梅、花は等級を指しており、記帳の際には等級の高いものから順に書くという。竹が一番等級が上で次に梅、花とつづく。そのほか仲買人は小金井の平野という人の名前も記されている。
 俵と記されたのは俵に入れて梱包したもので、駄とあるのはカマスに入れたものであるが、一俵の二倍ほどの重さを一駄と換算すると、俵にした総量は約三百二十四俵分になる。農家にとって出荷用のこうしたワラ製の運搬梱包用具の準備も手間を要した。このワラは稲ワラでなければならないから、常日頃それを手に入れて準備もしておかねばならない。昭和初期頃までは、その当時隠居をしていた記録者の父親が俵なども作っていて、わら打ち槌でワラを打ち、年中縁側で縄ない仕事をしていた。さつまいもは俵に入れて出荷したし、一方カマスは肥料が入っていたものを再利用することも多かったという。