草箒は前述したが醤油屋が使う特殊な箒で、畑一反か二反ほど作っていた。立木の状態のまま草箒の形に切りそろえて製品とする換金物であった。箒草の株間は五十センチから六十センチ間隔で、そのまま大きな箒の形に生やしていく。適当な高さに伸びたら研いだ刺身庖丁で畑に生えたままの状態で箒草の芯を切ったり下から出た芽をはらって草箒の形に整えていく。この畑に生えたままの状態で箒の形に整える作業は、収穫までに二回ほど行う。そして刈り取った後は三角に組んで並べて陽に干した。干し場はもっぱら東京街道である。東京街道は砂利道で良い干し場になっていた。「覚帳」にはこの年二百九円五十九銭の儲けで、収穫した草箒は一万二千二百七十本であったとある。この箒草は丈が高い。それが東京街道に一万本余りがずらりと並んでいた。乾燥が終われば出荷である。売り先は覚帳には保谷の岩崎市太郎という名前が見えるが、高円寺の娘(二女)の嫁ぎ先の荒物問屋にも出していた。草箒を作っていたのはこのあたりでは同家だけだったようである。