医療関係

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 前述した三月十八日の「覚帳」にあった「鯉二匹」を魚売りから三十銭で買ったことにふれたい。記録者の妻は血の病がちで、よく鯉を買って食べていたという。産後の肥立ちが悪かったのが原因であろうという。その妻が次女を生んだ三日目に姑が亡くなり、産後はふつう一週間ほどやすむものだが休むことができなかった。その妻はそれ以外には富山の薬売りの実母散を煎じて飲んでいた。富山の薬売りは三月六日と九月九日の年に二回来ている。この時は四円を支払っている。この当時の四円という金額は大きい。実母散は高価であった。富山の薬売りは置き薬で毎年使った分だけを集金し、その分を補充して置いていく。
 薬売りはここ三年間来なかったが、平成二十年にはまたやって来たという。
 また、その妻は目が悪く三月十五日の「医者」は眼科であり、三月に四回ほど久留米の自由学院の医院に治療に通い半月分の薬を貰っている。当時近隣には眼科医は久留米にしかなかったという。治療だけではなく病苦を救う泉蔵院のお薬師様にもお参りしていた。医療関係ではその他に、昭和病院に二週間ほど入院して治療したと記されており、これは記録者が赤痢にかかって入院した時のことではないかという。かかった病院名は昭和病院のほかに田無町の佐々医院の名前がみえ、またどこだか不明だが歯の治療に医者にかかっている。
 病は医者にもかかり、富山の薬売りの置き薬も飲んでいたが、同家は信心深い家だった。覚帳の信仰に関わる項目と寺院をあげて表2-13に示した。大沼田の泉蔵院のお薬師様の星祭に、また東村山の不動尊、高円寺の不動尊などにもお詣りしている。この当時泉蔵院のお薬師様は毎月十二日が縁日で、二月と九月に護摩が焚かれ、特に九月は近郷近在の人がやってきて店も出て大いに賑わったという。青年団は相撲場を作って相撲大会を開いたり、お薬師様の太鼓を叩いたり、小平の縁日に大勢の人が集まるのはこのお薬師様だけだったという。同家は特に泉蔵院とはかかわりが深く、作った作物やぼたもち、柏まんじゅうなども、何でも作ったものは必ずお薬師様のご本尊に持っていったものだという。それを持っていくのは、一番末の息子-この覚帳のことを話してくださった方-の役目だったという。
 
表2-13 信仰にかかわる出費(表2-1と同資料より作成)
出費内容金額月日
初午初午の旗と額9銭(3 / 19)
小谷田稲荷お詣り(4 / 19)
信心者下里の信心者50銭(3 / 14)
下里信心者20銭(10 / 29)
観世音様婆様20銭(8 / 16)
観世音様 粂次郎治療代20銭(8 / 26)
高木新田信心者ヘ四回お詣リ70銭(10 / 10)
深大寺大師様厄除護摩と御詣り1円20銭(3 / 18)
水天宮当間康一出征に付祈祷料20銭(9 / 5)
泉蔵院卒塔婆料1円(3 / 23)
泉蔵院薬師様泰一身体安全 星祭50銭(12 / 22)
東村山不動尊家内安全 星祭60銭(12 / 22)
高円寺不動尊御詣リ50銭(3 / 19)
不動尊御符並産物代1円76銭(4 / 11)
金子屋にて盆ござ1枚50銭(8 / 26)
盆花1本代22銭(8 / 26)
仏様の茶碗 二つ代18銭(8 / 26)
盆棚の御経料30銭(9 / 9)
西荻窪埼玉弓破魔代2円(12 / 23)
その他の信仰関係も含めて合計13円80銭

 
 三月十四日の「下里の信心者」が初午には稲荷社のお祈りに来てもらい、家相見も頼んでいたことは述べたがここで追記しておきたい。信心者というのは民間で祈祷や占いをする人をさしている。頼りにしていた信心者は田無市芝久保にもいたし、覚帳には下里以外に観世音様にも来てもらっており、また、高木新田の信心者にも四回くらいお詣りしている。同家が昭和三十年代半ばに家を新築する際には、屋敷の間取り図に井戸を掘る位置を示した図を見せて占ってもらっている。また次のような話もある。この近くに体を弱くして寝たきりの主婦がいた。そこに配給米を届ける米屋が日野(日野市)の信心者のことを教え、その主婦に行くことを勧めたという。そうして主婦はしばらく通ううちにすっかり元気になったという。頼りにされる信心者の存在はこうした形で人から人へ広がっていった。