戦前までの畑作物で金銭的に最も安定して収益が得られていたのはさつまいもと麦であったが経費や手間などを考えると、それほど儲けになる作付ではなかった。昭和十年頃、一反から上がる農家の収益は六十円くらいであり、そして同じ頃、大学出のサラリーマンの月給が三十円ほどであったという。
戦時中の供出の時代、農家は桑園などをほとんど作物畑に切り替えて、国の要求する食料の生産、供出に大いに協力することになった。自家用として食べる量と種子用を除く外は供出しなければならなかった。作付面積や収穫量にもとづいて各農家に割当てられたのだが、実際の収穫量に見合わない供出もあり、農家は大きな負担を強いられることとなった。主要食糧として供出の対象となったものは陸稲、麦類、さつまいも、じゃがいもであった。その供出は昭和二十年代半ば過ぎまで続いた。
農家の経営のあり方が大きく変わってくるのは昭和三十年代後半から四十年代のことになろうか。それは農地が売れるようになってからのことである。これは、小平の景観が変わっていくのと軌を一にしている。農地を売ることで、農家の暮らし向きは豊かになったという。それまでは農業における収益は生産や暮らしにかかわる諸経費にほとんどまわり、手元において自由に動かせる現金が少ない農家が多かった。雨漏りする屋根、朽ちかけた畳の取替えなど、家の修繕をしたくてもできなかった家は少なくなかったという。農地が売れて、古い屋敷も修繕あるいは新築が可能になり、農家全般、昭和三十年代後半には家が新しく建て替わっていった。また娘をお嫁に出す資金を得た農家もあれば、子どもの学資に当てた農家もあった。所有農地がお金になることで暮らしは楽になる一方農地は減少していくことになる。
現在は専業農家として経営を立てていくのは非常に難しい時代である。農業専業で暮らしを立てることができる家はきわめて少なく、大半の農家が一方にマンションや貸家を経営することで家計を維持しているという。