さつまいもの出荷

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 昭和十七年以降、この家の主要換金物はさつまいもと麦に変わった。この家ではさつまいもは直接神田市場に出荷していた。いも問屋が取りに来る家もあり、搬送を自動車屋に頼む家もあったが、この家のように直接さつまいもを町場の市場に出荷する農家も少なくなかった。父親の引く荷車の後押しで神田市場まで行ったのは彼が小学校の五年生、昭和十四、五年のことになる。市場へ出荷する日は、夕方までには荷作りを終えておく。さつまいもは、カマスをほどいてムシロにしたものを箱型に折って作ったワラの容器に入れた。さつまいもの品質も高かったが、この梱包法が他の家の出し方とは一味違っていて、より商品価値を高め、いも問屋も待ち受けてくれて値もその分高く買ってくれたものだという。
 市場へ出発するのは夜の九時頃である。提灯と替えのワラジを持って、七時間かけて神田市場まで引いていく。父親が引く大八車の後押しに、子どもの彼がついていった。青梅街道に時おりタヌキやキツネが出た。街道には灯りはなく、真っ暗な中を大八車の先頭にぶら下げた細長い提灯の灯り一つを頼りに引いていく。昭和の十年代当時、青梅街道の夜道は、人や大八車などの行き交いが多かった。多くは市場へ出荷する荷車である。荻窪あたりの農家の荷車の積荷は大根であったり、野菜であったりした。青梅街道はまだ砂利道で、中野のあたりを通り過ぎる頃には履いたワラジの底ははげしく擦れて破れた。そのため必ず履き替えを用意して出かけた。
 神田市場までの道中で二か所、どうしても大人の手を借りて押してもらわなければ上がらない坂があった。中野の成子坂とお茶の水の坂の下であった。その二か所の坂下には「押し屋」が待機しており、一回十五銭で坂の上まで押し上げてくれたという。そして神田市場には明け方四時頃に到着する。当時、持ち込まれるのは大半がさつまいもだったという。荷を降ろして伝票を仕切ってもらい、家に帰り着くのが朝八時頃である。寝ずに通しでの行程は、眠いしお腹はすくしで、子ども心にきつい仕事だと思ったが、父親の後姿をみていると弱音ははけなかったという。