彼は昭和三十年代からモロキュウリやウドを栽培する一方、従来から作付けてきたさつまいもも作りつづけていた。昭和四十年代、彼は農業の一方で焼きいも屋を始める。小平市内に団地ができて大勢の非農家の家が増えることは、農家にとっては新しい稼ぎの活路を開くきっかけにもなった。さつまいもの出荷で親の引く荷車の後押しをした彼が壮年時代、昭和四十年代から五十年代にかけてのことになるが-さつまいも作りの一方で十年間ほど焼きいもを売って稼ぎとした。当時、さつまいもは生で売ると一キロが八十円か百円にしかならなかった。手間がかかる割に作り甲斐のない作物であり、石焼きいも売りを試みた。売りにいったのは喜平町の小平団地である。準備はまず、いも焼き釜。これはプロが使っているリヤカーに取り付けた箱型のもので、いもを焼く窯は設計して鉄工所で作ってもらった。次にいもを焼く石は焼いても割れない特別な石で、宮城県の金華山の沖の海の丸石である。石屋に頼んでその石を取り寄せたが、そうした準備にかなりの資金を要した。
当時、千葉県の農家が作っていた紅小町という品種は中味が黄色でほくほくしていて、いいいもだった。焼きいもの釜をリヤカーに積み小平団地に行っていもを焼く。これがよく売れた。「まず石が真っ赤になるまで焼く。焼けたところでいもを入れる。いもが焼き上がるまでの手順を皆どっかで見ているんだ。焼き上がる時間を見計らっているんだよ。いもを焼き始めて二、三十分たった頃、どこから湧いてくるのか、ぞろぞろぞろぞろ、たちまち行列ができてしまった。焼きいもは売る現場でいもを焼く手順を皆に見せながら焼くんだ。人の気を惹く仕掛けが大事。」と思い返して彼は話す。いもが売切れたらまた同じように手順を見せながら焼く、それを繰り返した。
そうこうするうちに、回田の紅小町を作っている農家がいもを買ってほしいとやってきた。その当時さつまいもの生を市場に出荷すると単価キロ八十円か百円のものを、彼はキロ二百円で買った。農家にとっては思いがけない値であり、彼も入手が楽になり周辺の農家からも重宝されたという。近隣の十二、三軒の農家が彼の所に紅小町を持ちこんだが、そのほとんどを買い取ったという。キロ八十円か百円でしか売れないものを彼は二百円で買い取る。二百円で買い取ったいもを焼き上げて彼は一キロ八百円で売るわけである。生のさつまいもの四倍の値段である。当時プロの流しの石焼きいも屋は一キロ千円で売っていた。それを二百円安くして彼は八百円で売ったのである。一日の焼きいもの売上は六万円ほどにもなった。これは十一月ごろから二月の寒い盛りの仕事であった。寒い頃で吹きさらしのなかでの仕事だが、いもを焼く釜の火を燃やしての仕事で暖かく、焼きいもの売れる十一月から二月の間ほぼ毎日焼いも稼ぎに出たという。目いっぱい仕事をして、思いっきり稼げた仕事だった。