茶作り

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 茶作りは一年の内で二か月くらいに集中して行われる作業だった。彼が売り物の茶を作ったのは昭和十八、九年頃の二、三年で、後は自家用には毎年作っていた。お茶の木は畑の垣だけでなく、屋敷の周囲は茶畑が多かったから、かなりの量の茶の葉が取れ、大事な換金作物のひとつだった。当時十五、六歳の彼にとって、思い返しても一番嫌な仕事はこのお茶作りであったという。ジョタンという和紙を二、三十枚張り合わせて作ったホイロの底の上で、素手でしょっちゅう生葉を掻きまわして作る。仕事の最中に手が火傷だらけになり、手拭をぐるぐる巻きにしてかき回す。次第に手が動かなくなってくるが、それでも手を休めない。朝から茶をホイロで揉み始めたら仕上がるまで休みはなく、昼食をとる暇もなかった。両親は茶もみの仕事を息子一人に任せて、朝早くからさっさと畑仕事に出かけた。
 お茶は父親の代からよく売れたという。国分寺の駅前にお茶金というお茶問屋があって、そこに茶箱をリヤカーに積み引いていくのだが、店の者は彼の作った茶葉を茶箱からつまんでみて、一言「ちょっと違うぞ」とつぶやいていた。これまでの彼の家から買った茶の香りとは違うという。父親のそれと彼の作ったものの違いを一目で言い当てたが、喜んで買ってくれた。彼の家では、作ったお茶は内側にトタン張りの茶箱に入れて出荷したのだが、そうした付加価値をつけた出荷法も、高値がついた理由のひとつだった。そうした買い手のひとことはうれしいものだったが、やはり作る作業は嫌だったという。こうした生産技術は親から手取り足取りで教わるわけではない。ある時、茶を揉んでおけといわれて、一人放っておかれる。両親は畑仕事である。大竈に薪が焚かれてセイロの中の茶が蒸されている。なんとか親の仕事を思い返しながら、必死で作業をしたが、作業を身につけるとはこうしたものであった。茶の木の品種は何種類かあり、感触としては重たい葉っぱになるタイプと大振りの葉っぱになるタイプとがあったという。
図2-7
図2-7
茶葉の選別 飯山達雄氏撮影・寄贈 小平市立図書館所蔵(1957年頃)