しかしモロキュウリは一般のキュウリとは違った特殊な品種で、特定の農家が情報や技術に関しては門外不出の形で作っていた。それは埼玉県三郷(みさと)市早稲田のある農家で、毎年自分の家で種を採取して、しかも、その種は絶対よそへ出さなかった。彼の周辺にはモロキュウリ栽培の農家はなく、静岡県焼津(やいづ)の試験場を何回も訪ねた。そこにはモロキュウリを研究している技術者がいて温室もつくっていた。また、東京江戸川の農事試験場、千葉県幕張(まくはり)の東大農場などにも通うことになる。
図2-8
蛇腹のように畑の中をうねるビニールトンネル 花小金井(2011.4)
蛇腹のように畑の中をうねるビニールトンネル 花小金井(2011.4)
昭和三十一年に自宅の畑に温室を建てた。小平でのビニールハウス栽培の先駆である。その具体的な栽培については第四章に述べている。築地市場で彼の作った「小平のモロキュウリ」の右にでるものはいないと認められるまで、八年から十年かかったという。
作ったモロキュウリは彼自身が直接築地市場へ運んだ。モロキュウリの箱詰め法も事前に市場で見たものを参考にして作った。市場では丸京(まるきょう)という問屋があつかってくれた。当時は問屋からの注文は電報できた。それから大急ぎで、箱に摘み取ったモロキュウリを体裁よく並べ、モロキュウの出荷の準備が整うのは夜中の二、三時頃になる。それから一時間半うとうとすると出荷の時間である。その箱を三十箱位、大きな風呂敷に包み、国分寺駅からの始発の電車に間に合うように家を出た。国分寺の駅までは自転車で行き、一番電車に乗ると築地市場の競売時間に間に合う。新橋駅に着くと駅からタクシーで築地市場まで行く。新橋駅にはタクシーが行列して待っており、利用客も多かった。築地までは客が五人づつ乗り合いで行く。一人百円位であった。荷物は車の後ろのトランクに入れる。品物を運ぶ手段としてタクシーは便利だった。
昭和三十年代、築地市場で静岡産のモロキュウリが六百円位の値がついた時、彼の作った「小平のモロキュウリ」はその倍の値段がつくほど商品価値が上がっていた。それがきっかけで小平においてもモロキュウリ作りの農家が増えていった。彼はモロキュウリ栽培を八年から十年間くらい続けたが、鮮度を維持し、時間との戦いのこの栽培を維持し続けるのは重労働で、結局体力的にも限界を感じたことでやがてやめた。彼がモロキュウリ作りに情熱をかたむけたのは三十代から四十代の頃のことであった。