模索と挑戦

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 昭和三十年代以降農家の農業経営は大きく変容していく。近代農法の東京での急先鋒といわれていた家が武蔵野市境にあった。この家の新しい農家経営の動きは東京近在の農家に大きな刺激を与えたという。多くの農家が見学に訪れ、後年、彼も軟化ウドの栽培の見学に行き、試行錯誤してウド栽培を行っている(第四章)。旧来のさつまいもや麦作りといった農家経営から、より収益があがる商品作物を作っていかないと、農家としてこれからの時代を生き抜いていくことができない。何を作るか考えた末に、彼は新しく栽培する商品作物にモロキュウリを選んだ。割烹料理屋などで出されるモロキュウである。かなり高い技術を要したが、換金物としての位置づけも高く、挑戦し甲斐のある作物だった。モロキュウを出す店は割烹料理屋に限られていた。それで新宿の歌舞伎町の割烹料理屋に客として足を運んだ。どういったものが客に好まれるのかを知りたく店でコップ酒ひとつにモロキュウを一皿注文した。小ぶりな皿にモロキュウが二本、そこに擂(す)り味噌が添えてある。それだけで二百五十円であった。昭和三十二、三年頃の話である。高いもんだと思いつつ、これも勉強だと何回か通った。当時、八百屋で売っているふつうのキュウリは五円か十円であったがモロキュウリは料理屋では二本で二百五十円。さぞかし元値は高いだろうと、今度は築地市場の競りに見に行った。モロキュウリはA四版ほどの大きさの薄い木箱に三十本並んで入っていた。それがなんと、八百円から千円の値がついていた。当時そうしたひと箱が千円で売れるというのは農家にとっては夢のような話であった。それでなんとかモロキュウリを作れないかと、試行錯誤が始まった。
 しかしモロキュウリは一般のキュウリとは違った特殊な品種で、特定の農家が情報や技術に関しては門外不出の形で作っていた。それは埼玉県三郷(みさと)市早稲田のある農家で、毎年自分の家で種を採取して、しかも、その種は絶対よそへ出さなかった。彼の周辺にはモロキュウリ栽培の農家はなく、静岡県焼津(やいづ)の試験場を何回も訪ねた。そこにはモロキュウリを研究している技術者がいて温室もつくっていた。また、東京江戸川の農事試験場、千葉県幕張(まくはり)の東大農場などにも通うことになる。

図2-8
蛇腹のように畑の中をうねるビニールトンネル 花小金井(2011.4)


 昭和三十一年に自宅の畑に温室を建てた。小平でのビニールハウス栽培の先駆である。その具体的な栽培については第四章に述べている。築地市場で彼の作った「小平のモロキュウリ」の右にでるものはいないと認められるまで、八年から十年かかったという。
 作ったモロキュウリは彼自身が直接築地市場へ運んだ。モロキュウリの箱詰め法も事前に市場で見たものを参考にして作った。市場では丸京(まるきょう)という問屋があつかってくれた。当時は問屋からの注文は電報できた。それから大急ぎで、箱に摘み取ったモロキュウリを体裁よく並べ、モロキュウの出荷の準備が整うのは夜中の二、三時頃になる。それから一時間半うとうとすると出荷の時間である。その箱を三十箱位、大きな風呂敷に包み、国分寺駅からの始発の電車に間に合うように家を出た。国分寺の駅までは自転車で行き、一番電車に乗ると築地市場の競売時間に間に合う。新橋駅に着くと駅からタクシーで築地市場まで行く。新橋駅にはタクシーが行列して待っており、利用客も多かった。築地までは客が五人づつ乗り合いで行く。一人百円位であった。荷物は車の後ろのトランクに入れる。品物を運ぶ手段としてタクシーは便利だった。
 昭和三十年代、築地市場で静岡産のモロキュウリが六百円位の値がついた時、彼の作った「小平のモロキュウリ」はその倍の値段がつくほど商品価値が上がっていた。それがきっかけで小平においてもモロキュウリ作りの農家が増えていった。彼はモロキュウリ栽培を八年から十年間くらい続けたが、鮮度を維持し、時間との戦いのこの栽培を維持し続けるのは重労働で、結局体力的にも限界を感じたことでやがてやめた。彼がモロキュウリ作りに情熱をかたむけたのは三十代から四十代の頃のことであった。