マンション・貸家経営へ

305 ~ 305 / 881ページ

図2-10
宅地化の中の農地 小川町(2012.6)

 平成二十三年に亡くなった夫は農作物栽培だけで今を生きぬくのは難しいと判断し、農家経営のあり方を大きく変え不動産経営を主軸に家計を維持することにした。まず貸家を八軒建てることにした。貸家を建てるために一番はなれた奥の土地を売ったが、次に作った建物へ入る道路を作らなければならなかった。マンションを作るにしても相続した土地を売るにしても道が入らなければ土地も売れない。そこでリヤカーが引けるだけの幅しかなかった農道を近隣の協力を得て六メートル幅の道路に造成した。その道を作る費用にまた土地を売っていくことになる。
 農業と貸家で生計を立てることになった同家だが、自分の家で食べる分の麦やおかずの野菜は作付け、換金作物としては移動ウドを作っていた。移動ウドとは軟化ウドのことで、軽井沢の鳥居原(とりいはら)や古宿(ふるじゅく)の農家にウドの株を作ってもらい、それを自宅の穴蔵で光を当てずに育て、白い軟化ウドを早出しで出荷した。このウドは夏ウドで昭和二十九年に初めて小平で作り、三十年間、昭和五十九年頃まで換金物として出荷していた。また果樹園もやっていて桃や栗を作っていた。後には梨も作り、これも小平でははじめて作ったという。それは平成二十三年まで続いていたが、夫の死と共に相続で畑も果樹園もすべて終業となった。