江戸中期以後の住宅

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 江戸中期以後の住宅は、ザシキ、デイ・ヘヤ、ドマ、ドマの物置が並列した横長い間取りで、その特色を、南向きでドマが東にある住宅を例に、間取りの様式の特色を以下のように記述している。ドマの入口は六尺の大戸、裏のダイドコロには三尺の引き戸があった。ドマの北にカマドとナガシがあり、ナガシはこの時代にはドマに張り出した板の間のカッテの上に立ちナガシが設けられていた。風呂場はドマの南の壁の外に置かれ、その正面側は細い格子組の出窓になっていた。入浴する時は人は縁から入り、焚口は大戸の側にあった。これらのナガシや風呂場の配置は、次の時代になると、ドマの方へ移される。ナガシはザシキのイロリに近く使いやすいように床状に配置されていた。ドマは仕切って馬屋やムロが作られ、土壁で仕切られた倉庫も兼ねる空間として使われていた。当時としては一般的な農家の規模であったろう(図3-3)。

図3-3
小川邸復元平面図(『小平町誌』より)。なお原図には部屋の呼称は記されていない。

 ザシキは板の間で、南から北までひと続きの部屋で、北にはナガシに並んで戸棚があり食器が収納されていた。イロリはこの板間のザシキにあった。またザシキの上手(かみて)にはザシキ飾りとして、押板(おしいた)がほとんどの家につけられていた。押板は奥行の浅い、板張りの床の間で、小平ではオキドコとも呼ばれていた。家の守護神を祀る場であり、神社のお札を貼り、今の神棚と同じように使われていた。この時代は食事や接客のためのイロリを中心に、ナガシ、戸棚、風呂場が便利よく配置される形になった。
 床上部分にはザシキに続いてデイ・ヘヤが南北に並んでいる。デイ・ヘヤは八畳か十畳敷きで、部屋の外面に障子と雨戸が建てられている。デイは婚礼や葬式などの寄合いのための表ザシキであった。小平ではこの時期、普通の農家にはデイに床の間がない。それは禁令によるものであろう。普通の農民の家ではデイはひとつであるが、村役人を務めた家では南北に二間作られていることが多く、カミデイ・シモデイと呼ばれ床の間もある。
 ヘヤは専用の寝室であった。古い時期のヘヤはほとんど回り全部が土壁で、まっくらな部屋であった。ヘヤは寝室だが単なる寝間ではなく、格式的に重んじられた家長夫婦の寝室であった。江戸時代の初期頃の農民は隠居するのが早く、結婚した若夫婦は間もなく家長となったから、ヘヤは若夫婦の寝室ともなった。
 幕末の頃になると、間取りのあり方は変わっていく。上下のデイを作り、床の間を設けるようになり、押板の設置場所に仏壇と戸棚がはめ込まれ、その欄間(らんま)に神棚がつくられると、押板は用をなさず姿を消した。ザシキに仏壇・神棚が設けられた。そしてカッテは広くなり、そこにイロリを移し、ナガシが床上からドマに移った。風呂場の位置もドマの隅に移る。こうした幕末期の間取りの変化について『小平町誌』には、床上の畳を敷いたザシキ空間、そしてナガシ・イロリ・風呂場のあるドマ空間、カッテの生活空間を、住む側がはっきり分けて使うようになったことによると記されている。
 なお古い時期の付属舎のなかで重要なのは穀櫃(こくびつ)であった。享保六年の百姓作右衛門の家には小さな本屋のほかには穀櫃ひとつあるにすぎなかった、よって穀櫃は最も重要な建物であったろう。また、明治八年(一八七五)の火災届には隠宅、物置、薪小屋、下小屋等の名称がみえるとある。