建築構造

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 草葺き民家の構造についても前掲書からみていく。屋根は格子を破風(はふ)にはめ込んだ入母屋(いりもや)造りで、内部はサス構造である。屋根裏は竹の簀子を床として、広い空間で収納空間となり養蚕の飼育場でもあった。屋根を支える梁は二重になっている。上の梁はサスを受け、また屋根裏を支える大引(おおびき)の役目も果たしている。これを普通本梁(ほんばり)という。次に本梁を受けて、その荷重を柱に導くのが下の梁(シンシ梁)である。幕府の禁令で梁間と呼ぶのはこの本梁の長さであるが、シンシ梁の方法を用いると三間梁でも前後に下屋をつけて、四間にのばして使うことができる。このような梁の使い方を下屋作りと呼び、それは江戸時代中期以降では広く全国の民家に普及してくる。普通はこの方法は二間半梁、三間梁の禁令を逃れるために広く用いられるようになったと考えられている。
 小平の江戸中期の民家は以上のような下屋作りの手法を用い、構築上特記することはサスを六尺間(ときに七・五尺間)におき、したがって本梁も六尺間においてある。桁行きに梁を六尺間に通し、それでシンシ梁を支える。この梁はデイ・ザシキ・ドマ・倉庫の四部分のさかいでつなぎ、通し梁を用いない。壁通り、間仕切り通りには柱を六尺おきに立てた。こうした草葺き民家の構造から概観する江戸中期の特色は、軒先が低く、柱が六尺おきに立っており、ドマとザシキの境に太い大黒柱が二本、ないし三本立っているなどの特徴がみられる。
 それが幕末になると、シンシ梁を一本で通し、北側の下屋が広くなるようにして、これよって北側に広いカッテやカミデイを作ることができた。また南側には下屋作りを用いない。こうすることによってザシキは高くできて天井を張ることができた。また、正面の桁を高くして住宅の外観を誇るようにしたという。
表3-1 火事見舞い品の種類と数量
「出火見舞控帳」辛嘉永4年 亥3月11日 當麻家文書より作成
(裏表紙)多摩郡大沼田 當麻弥左衛門
項目品目各品目の総数量
手伝い大沼田村内、小川新田からは24、5人、大岱村、北野中、柳久保、両野中から。総人数は不明
お金37両 + 11分 + 2280疋 + 青銅20疋
建築資材16分3寸6束
3寸棒1駄
4駄 + 16束
松板2駄 + 24束
樅板14駄 + 6足
貫・中貫3駄 + 1束
筵 + はん能むし70枚 + 30枚
麦カラ79駄
かや8駄
杉皮12駄 + 7束 + 14把
丸皮1駄
4駄 + 2束 + 2把
440房(=坊) + 1束 + 2把 + 2把?
住用具じゅうのふ1本
竹ほふき3本
火はし1せん
食品むすひ片馬 + 手桶21杯 + 5駄 + 7はんだい + 3
たくわん大樽1本 + 2樽 + 1桶 + 切りタメ2
芋の煮物小川黒鍬中 鍋に芋煮をたくさん入れて
3駄 + 4斗 + 片馬(角樽1本)
まくろ片身
魚塩引1
いわし干物2かご + 100数
ひもの2抱 + 100数
するめ2抱
10
にしめ1桶 + 2切タメ + 3重 + a
味噌1樽
醤油1樽
白砂糖2袋
3俵5斗
挽割4俵
まんちう木地重2 + 2重ね×2 + 2
大袋1 + 4半斤
しんこ2重
とふふ7丁
1わ
くわし3袋 + 大折箱1
牛蒡1わ
梅ほし1重
鰹節5本
からいり1鉢
生地路重2
切ほし1さる
金山寺1重
食用具ふた茶わん22
茶わん293
茶漬け茶わん40
茶呑み茶わん20
白角茶わん10
茶台1
おはち1
吸物わん1
かしわん10人前
重箱2組
せん箱(膳箱)5つ
切溜5つ組1つ + 1
5人前
すり鉢1
大木鉢1
一升徳利1
かん徳利1
土びん1
大土びん2
半タイ3
三つ組2
大ゆき平1
はし3わ
箸箱(箸付)3
ほうてう1
ブレツケ盆1
真生板1
煮具2つ
からかね鍋4
着用具下駄8足
子供木綿綿入2つ
白木綿1反
たひ2束
手拭5反 + 13筋 + 5
7つ
わらんし(草鞋)15足
容器かし桶2
3
運搬手桶19
容姿具11本
日傘1本
浅草紙(落とし紙)2状
綿紙
梱包風呂敷3
趣味たばこ2
その他?あわから2駄
4数

図3-4
図3-4 屋敷配置図と建物規模 嘉永4年(大沼田 當麻家文書より作成)
 本図は嘉永4年(1851)の火事で焼失した屋敷の届け出文書。嘉永4年4月11日の未明に出火し、出火の理由は、竃の下の灰を取り出し、湿らせて肥小屋に入れたのだが、火の気がまだ残っていて、折悪しく辰巳(南東)の方角から吹きつけた烈風にあおられ燃え上がってしまったということであった。灰が肥料に使われていた様もうかがえる。この居宅は大沼田新田の江戸往還と所沢街道が交叉する一角にあり、そこには屋敷配置図も添付されていて、その当時どのような建物がどのように配置されていたのか知ることができる。またその焼失した建物については、その規模も記載されている。
 この家は名主で大規模な屋敷である。屋敷の南側は江戸往還が走り、西は所沢街道が走る。その屋敷地のほぼ中央に居宅の1棟と継添建家1棟がある。居宅の桁の向きは江戸往還に並行に東西に延び、南向きに建っている。居宅の背後に隣接して水車場があり、水車を廻す水は、水路を外から取りこみ、屋敷内を廻らし水車に注ぎこんでいる。居宅の南西に土蔵が4棟並び、その土蔵に向かい合うように屋敷の東南の位置に醤油蔵が2棟建っている。居宅の裏、北側に酒造蔵1棟あり、裏の東北の位置に厩(うまや)に肥小屋があった。