屋敷林

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 かつての青梅街道は、夏にはケヤキ並木のトンネルが続き、また農家の周囲はキモリと呼ばれるケヤキやカシの木の屋敷林にとり囲まれていた。そのケヤキはほぼ五十年ごとに切って用材とした。青梅街道沿いにある小川町あたりのヒトヤシキ(一軒の屋敷)の間口はおよそ十二、三間といわれていた。それが天神町あたりになるとヒトヤシキの間口は三十間、また広いところで四十五間ほどあったが、その分奥行きは小川あたりよりも短かった。また、街道沿いの屋敷の正面は東か南に向いていて、総じて東に向いた家が多かったという。
図3-5
図3-5
青梅街道沿いの集落の地割(『武蔵野の集落』矢嶋仁吉著より作成)

 街道と屋敷の境はヒイラギの生け垣や、家によっては黒塗りの板塀であり、また、隣家との境についてはヒイラギなどの生け垣が多かった。かつて青梅街道も、東京街道も道の両側は麦や陸稲の干し場になっており、農作業空間の延長の場であり、子どもたちの遊び場でもあった。戦前は車は通っても一日に一台くらいであったし、それも車が通過するのは道の真ん中だけで、道の両端にムシロが広げられていても支障はなかった。
 屋敷の配置をみると、まず屋敷内の母屋の建っている位置が街道の南側と北側の家では違っていた。街道の南側にある家は道路に近い側に母屋を建て、街道の北側の家は道路から離れた場所に建てられている。ともに母屋の南側に広いニワがとれるように配置されていた。ニワは様々な農作業を行う大切な場所で、生産と生活が同居した農家の住まいの配置のありかたの大きな特色になる。収穫した麦は脱穀機にかけた後、コンクリートのように固いニワにじかに広げてボウチで叩いてノゲをとる。また脱穀した麦をはじめ様々な作物の乾燥場であり、それはムシロに広げて干した。この宅地とニワを含む空間は少なくとも五百坪ほどはあったようである。

図3-6
屋敷裏に続く畑。東西に切られた畝。手前は防風の茶垣 小川町(2010.2)


 母屋の周辺にある付属建物は、農家経営のあり方をそのまま反映している。その数や種類は家によって違いはあったが、おおよそ土蔵、味噌蔵、納屋、堆肥小屋、便所、豚小屋、薪小屋、鶏小屋があり、そしてなかには隠居屋をもつ家もあった。そして穴蔵やムロといった桑やさつまいもなどの地下貯蔵施設があった。そうした建物の背後に東西に生活用水が突っ切り、用水の後に竹藪があった。屋敷の入り口からニワ、竹藪までを含めた空間を屋敷という。屋敷の中には様々な樹木が植わっていたが、どの家にもあったのが柿の木である。天神町のある農家では、柿の木は飢饉の時の用心に植えたものだと言い伝えられている。同家の柿の木は、実は小さかったが樹齢も定かではないほどの大木だったという。

図3-7
穴蔵 小川町(2011.4)


 屋敷地の背後に畑が続く。短冊形の畑のほぼ真ん中を南北に赤道・朱引道と呼ばれる公道が通り、その道幅は一・八メートルほどで野良仕事にはその道をリヤカーなどを引いて行き来した。そして一番奥にヤマと呼ぶ雑木林があった。屋敷と耕地、ヤマを短冊状に持っていたのが一般的な街道沿いの家の生産生活空間であった。養蚕を行っていた時代は畑は七割から八割は桑畑で、残りの畑に食用の麦や陸稲を作っていた。ヤマにはクヌギ、ナラ、エゴなどの雑木があり二十年位に一回根元から切って新しく芽を出させた。二月に伐れば三月には新芽を吹き、こうした木は枯れないのだという。