カワと「たから」

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 青梅街道の南側と北側の家々の屋敷の中を、街道と並行に生活用水が流れており、これをカワと呼ぶ。カワ幅は用水の両側のヌマアゲの土手の部分を含めて全幅約三・六メートルほど、水が流れている幅は九十センチほどである。往時は飲用水としても使われていたカワは明治三十年(一八九七)頃伝染病が大流行したのを機に次第に飲用には使わず、もっぱら食べた後の鍋釜、野菜などの洗いものに使われた。
 このカワの周辺に独特の呼び方をする空間がある。街道の南側にある家々では、カワの南側の空間を「たから」と呼び、カワの南側の土手の道は「たからみち」と称し、そのカワにかけた小橋を「たから橋」と土地の人は名付けている。「たから」の敷地に住む人の名前が例えば鉄五郎であれば、「たからの鉄っつぁん」と呼びならわし、「たから」にある農家が構えた文具、パン、雑貨を売る店の名前は「たからや」で、その店の女主人は「たからやのバア」で通っていた。一方街道の北側の集落の場合は、『ききがき 小川四番の女たち 2』によれば、カワの北側の空間を「たから」といい、農作業場になっていて、その「たから」空間の、隣家との出入口、および畑との境を東西に走る農道も「たからみち」と呼んでいる。この「たから」という呼称は小川町から仲町の間の農家では聞くことできた。
 カワは、かつては一年二回、今は一年に一回、五月頃、ヌマアゲ-沼さらい-を行う。カワかがりの家が出てカワの泥やごみを揚げて掃除する。事前に玉川上水の羽村の堰を一週間位止めるのだが、そうすると水がなくなりカワで小魚があふれるほど獲れたといい、その魚とりは子どもたちの楽しみでもあった。ヌマアゲが終わると組ごとに集まり、うどんを打って食べるのが習いであった。
図3-8-1
図3-8-1 青梅街道沿いの草葺き民家の配置図
『ききがき 小川四番の女たち 2』(2004年 ききがきの会)所収の原図をもとに加筆作成(加藤武一家)
同書よりの抜粋メモ
・江戸時代、家が建てられる前は杉山だった。
・大正初期、家が火事で焼け東村山の家の建材を使って建て替えた。
・洗い物は用水、飲み水は井戸、下水は穴を掘って流した。
・家の南側の座敷は祝儀、不祝儀・寄合等に使用され、養蚕盛期には一階の座敷まで蚕室として使うので家族は隅のところで寝た。
・味噌、醤油などは味噌部屋や蔵に保存した。
・風呂は薪で沸かす五右衛門風呂で壁には富士山の絵のタイルがはめ込まれていた。
・穴蔵は芋の保存や冷蔵庫代わりになった。
・庭や「たから」で農作業をし、「庭どうし」や「たから道」を使って隣との行き来をした。

図3-8-2
図3-8-2
図3-8-1の草葺き民家の母屋間取り図をもとに加筆作成。
囲炉裏が土間にある