青梅街道沿いの家 その1

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 街道沿いの草葺き民家の聞書きによる復元間取り図、屋敷配置図をもとに述べていく(図3-11・12)。以下の話はこの家で昭和九年に生まれた女性からの、嫁入り前の戦後間もない頃の聞書きになる。この家は青梅街道筋の小川の街道沿いの北側にあり、今から四代前の戸主は村役を勤めていたという。かつて同家の土地は、青梅街道沿いの屋敷から野火止用水まで続いており、同じ北側でヒトヤシキおいてもう一区画を同様に野火止用水までもっていたといわれ、屋敷に入ると、門口の東側に土蔵があった。その土蔵は、彼女の曾祖母(慶応生まれ)がこの家に嫁入りした際に、嫁入り道具のひとつとして、五棟か六棟あった実家の蔵の一つを曳き家して持って来たものだという。曾祖母の実家は同じ小川にあり、当時はかなりの大地主であった。曳き家したその土蔵の南側には長い下屋を出して十二畳ほどの部屋を作っていた。屋敷地の東側を空けて西奥側に草葺きの母屋が建っていた。母屋のトンボ口は東に向き、屋根の棟は南北に街道に直角に通っていた。ドマの北の裏口のそばに昭和九年に掘った井戸があった。母屋の東側にある広いニワは、年三回の養蚕時期にはトタンの屋根掛けがされた。母屋の奥には蚕室と物置が並んで建っていた。蚕は稚蚕の時には居宅のザシキで飼われ、大きくなってくると屋根掛けしたニワで外飼いし、彼女が覚えているのは桑の葉を枝ごと食べさせる条桑育(じょうそういく)であった。そして上簇(じょうぞく)すると二階建ての蚕室と母屋中が蚕飼いの場一色になった。
図3-11
図3-11
青梅街道沿いの草葺き民家の屋敷配置図(戦前)

図3-12
図3-12
図3-11の草葺き民家の母屋の間取り復元図。イロリがシタザシキに切られている

 蚕室の隣の物置は二階建ての丸い出窓がついた一風変わった建物であった。彼女が不思議に思って慶応生まれの曾祖母に聞くと、その建物は、玉川上水から用水を分水するための小川分水の取水口付けかえ時に小川橋のたもとにあった茶屋であり、不要になって放っておかれたものを、先祖が買って曳き家してここに持って来たという。この古い建物は物置にしていたが、西側は半地下の土間で養蚕時の桑葉の一時的な保存場所にしていた。
 蚕室と物置の北側を生活用水が流れており、その幅は両側の土上げを含めてほぼ二・七メートル、川底の幅は約一メートルくらいあった。飲料水や食用には自宅の井戸水を使い、風呂は水がきれいな時代には夏場は用水を汲みいれ、冬場は井戸から汲みいれた。用水の縁にはホタルが飛びかい、中には魚がいて水は美しかった。このカワの水も人家の急増で汚れてきてからは風呂水にも井戸の水を使うようになった。

図3-13
草葺き民家の障子戸 小川町(2009.7)