図3-14 草葺きの民家内の美しい板戸小川町(2009.8) |
風呂場はトンボ口から入ったすぐの右手のドマに鋳物製の五右衛門風呂が設えてあり、仕切りはなかった。小平の古い民家の風呂場の位置はこの家のあり方と同様であったようだ。ドマにはカマドがあり、ドマからザシキへは板敷の小縁のアガリハナから上がった。東と南に面するザシキの外側を廻るように縁側があり東の縁の突き当たりに便所があった。南の縁側には機(はた)織り機が置いてあり、機織り上手な曾祖母が機を織っていた。
かつては四世代が一緒に住み、曾祖父母夫婦、祖父母夫婦、父母、そして子どもたちが三人、父親の弟や妹たちも所帯を持つまでは一緒に住んでいたから多い時には家族十二、三人が一緒に暮らしていた。八畳のオクザシキは床の間と押入れがあり曾祖父母夫婦が寝ていた。オクザシキの隣が三方を壁や戸に囲まれた真っ暗な部屋で、ナカマと呼んでいた。この部屋が江戸時代、ヘヤといわれたその家の家長の専用の寝室であったのだろう。ナカマの隣の一部板敷の八畳の部屋は祖父母夫婦が寝ていた。後の家族がどこで寝ていたのかは定かではない。押入れはオクザシキとナカマにあり、家によっては一か所か又はない家もあった。布団はナカマ-他の家ではヘヤと呼ぶ空間-に畳みあげていた。その北隣のドマに面した部屋は炬燵(こたつ)があり、食事用の膳棚(ぜんだな)があってここで食事をした。
曾祖母の実家から曳き家して持って来た蔵の下屋には十二畳にカッテのある部屋で、人に貸していた。その借家人夫婦には子どもが十人いたという。常時十二人ではなかったにしろそこに大勢の家族で暮らしていた。