青梅街道沿いの家 その2

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 次も小川のある家の草葺き民家時代の間取り図である。図3-15はこの家で大正十三年(一九二四)に生まれた女性からの聞書きで、戦前のことになる。家は農業のほかに自動車運送業を営み、籠細工も作っていた。母屋は南向きで屋根の棟は東西に延び青梅街道に面して横長い間取りの家であった。母屋の東隣の隠居屋は祖父母夫婦が住み小さな商いをしていた。ドマがあって部屋は二間あった。自動車運送は二人の息子に任せ、祖父は家業の農業と竹細工などを稼ぎとしていた。隠居屋の話は天神町の農家でも聞いた。また大沼田のある農家では代々隠居すると蔵の二階で寝起きしたものだという。
図3-15
図3-15
青梅街道沿いの草葺きの民家の間取り復元図(昭和19年頃)。ひとつ屋根の下に13人が暮らしていた

図3-16
図3-16
青梅街道沿いの草葺き民家の間取りの復元図(昭和37年頃)

 この家の間取りは、青梅街道に向いたザシキの部屋が三つあり、その三つの一番奥のザシキは八畳で床の間があって押入れがあった。次のザシキも八畳、ドマに近いザシキが六畳くらいだったが、そのひとつひとつの部屋に蚕の暖をとるための炉がきってあった。これらのザシキの北側には、一番奥に部屋があり(部屋名は不明)、次の間は板の間で、その次がダイドコロ、オカッテと続いていた。そして風呂場があった。母屋の後ろに小さな離れがあった。この家には家族の外に住込みの雇い人もいた。隠居屋の祖父母夫婦以外に、父母、彼女の兄弟が四人、父親の弟の家族(夫婦に子どもは多い時には五人)、これで十三人になる。彼女の祖父の代に自動車運送をはじめ、彼女の父親と叔父にその家業を継がせた。したがって彼女の叔父夫婦も同居していた。そして家族以外に女中が一人、自動車運送のための住込みの運転手が一人、そしてその助手の二人も住込みだったようだ。その運転の助手には常時ではないが、通いの人もいて、それは農家の人を頼んでいたという。作代もいるが、この人は通いだった。寝間については子どもの成長のありようや、叔父夫婦に子どもが生まれると部屋替わりをしており、そのあたりは記憶が定かではないという。
 かつての草葺きの家には押入れが極端に少なく、この家も押入れは表のザシキの床の間の横にあるのみであった。ふとんは昼間は女中さんの寝間の板間の部屋に畳んでいたようである。ザシキの裏にどこの家も納戸的なヘヤがあった。こうした大所帯の家では一人一人固有に部屋があるわけではなく、子どもの成長とともに少しずつ部屋の利用も変わっていったのであろう。就眠は夫婦がひと部屋、祖父母夫婦と孫が一緒に寝るといったこともあった。部屋の仕切りは唐紙一重である。『ききがき 小川四番の女たち2』より、草葺き民家に住んでいた時代の印象深い一人の女性の話を記したい。「昔の農家は唐紙一重で仕切ってあるでしょう。うちも唐紙へだてて、南の部屋におじいさんとお舅(姑であろう)さん。北側が私たち夫婦の部屋。クシャミでも聞こえるとドキッとして息をひそめてた。だから二人だけの話があるときは裏からそーっと抜け出して用水を渡って畠で話したの。」
図3-17
図3-17
小川愛次郎氏宅屋敷配置図(小川町 昭和36年現在)(『小平ふるさと村 市指定有形文化財旧小川家住宅玄関棟移築復元修理工事 開拓当初の復元住居建築工事の記録』、1998年刊より作成)