屋敷とそのまわり

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図3-21
図3-21
屋敷空間(居住者の原図より作成)

図3-22
図3-22
屋敷と耕地(昭和16年以前) 屋敷と畑を含めると面積は約1町7反

 図3-21・22は彼が暮らしていた時代の屋敷まわりの配置図である。回田町のかつての草葺き民家は皆南向きに建てられ、この家の母屋は短冊状の土地の北側にあり、屋敷の北の縁を生活用水の関野用水廻し堀が走っていた。用水堀の土手にカシの木の防風林があり、それはまた用水の土手の土留めの役も果たしていた。また屋敷の北側に広がる竹林も風避けであり、その中を用水のカワバタに向かって、水汲みに行き来した小路が走っていた。用水に沿う道の北側に同家の内墓があったが近年菩提寺に墓を移した。茶の木は居宅を囲うように広がり、その中に栗の木もあった。昭和の初め頃までは屋敷の北の入り口に炭焼き窯の窯跡が二つ残っていた。大正時代には焼いた炭を山梨の方まで売りに行っていたという。この家の屋号はスミヤである。
 屋敷空間は七百坪ある。宅地の南側の面に約七十坪のニワがあった。ニワは農作業の場で石ころ一つ落ちておらず真っ平らであった。毎日二回くらい箒で掃いていると舗装したような面になる。主に大麦、小麦の脱穀に使われ、脱穀にはクルリ棒を用い、のちには動力脱穀機で行った。かつて隣組があった時代は、家で結婚の宴を催し、このニワで馳走に出すうどんを男衆が打ち、また家によってはこのニワで葬式を行ったという。
 土地は屋敷と畑に分けられる。宅地と屋敷まわりの付属建物やニワのある部分を含めて屋敷という。養蚕の時の桑葉や茶葉を一時収納する半地下式のムロや、また軟化ウド栽培やさつまいもの貯蔵につかった地下四メートルの深さに掘られた穴蔵の場所も屋敷内にある。半地下式のムロは地面から深さ約一メートル、幅五メートル、長さ七メートルとかなり大きく、地面から茅屋根で覆っていた。一方穴蔵は地下四メートルに掘り下げ、十二、三段の梯子で降りていく。地下は更に十字形にそれぞれ奥行き四メートル、高さ一メートル、幅二メートルに掘られていた。穴蔵は明治四十年(一九〇七)、昭和三十年、三十五年頃に掘られて合計三か所あった。
 屋敷の南側に短冊状に畑地が続いている。短冊形の畑の全巾は三十六間ある。耕作地は一町五反。回田の集落では畑の幅は広い方になる。家の前に続く赤道をリヤカーを引いて、あるいは自転車に乗って畑仕事に出かけた。