土間に近い十畳のザシキの縁側近くの一畳分の空間に機織り機が置かれていた。母親は、東を向いて機織りをしていた。蚕を飼い、そのマユの中でも売りに出せないようなビョショマユ(クズマユ)や玉マユなどで自家用の着物の布を織った。ドマ側のザシキは子どもたちの寝間でもあり、昼間は子どもたちの遊び場でもあった。
しかし、養蚕が始まると部屋の空間機能が一変する(図3-27)。とくにこのザシキはそれまでとは別世界になる。養蚕が大きな稼ぎであった時期、春蚕(はるご)、初秋蚕(しょしゅうさん)、晩秋蚕(ばんしゅうさん)と年三回飼うので、五月から九月いっぱいザシキは蚕の部屋になった。蚕は「おこさま」と言われて大事にされ、ザシキに子どもが入ろうものなら、親から怒鳴りつけられたものだという。ひと間のザシキで飼われていた蚕が大きくなると、ザシキふた間を蚕に占領されることになる。さらに、ザシキ空間からドマもふくめてすべての場所が蚕飼いに優先される。その間はオカッテの板の間で食事もし、寝るのも、休むのも、日常生活のすべてがこのオカッテの板の間であった。養蚕が始まると九人の家族は、夜は作業の合間を見てイロリの周りの板の間にムシロかゴザを敷き、そこにうすい布団を敷き、その上に布団をかけての雑魚寝であった。子どもの頃は現在のような暖房は無く家のなかは寒かった。
図3-27 養蚕時期の家の中の空間の機能 |
そうした親の姿勢が蚕は大事な稼ぎだと子ども心に刻まれた。こうした空間の利用のあり方は、養蚕農家にとってはどこも当たり前の事であった。昭和十年前後、ザシキの床板が傷み修理のため床板をはいだところ、床下部分に粘土の炉の跡があった。何のための炉だったのか、明治末生まれの父親からは、イロリの跡だとは聞いていないという。多分蚕飼いのための暖房用に作られたものであったろうという。冬の暖はイロリでとり、その他は火鉢がひとつあるのみだった。