ザシキ空間

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 ザシキと言われる部屋が三つあった。ザシキ空間は十畳が二間と八畳一間である。南の縁側に面した部屋二間のザシキは十畳で、西側の奥のザシキはオクザシキともいうが、通常ザシキと呼んでいる。また、北側の八畳の板敷の部屋もザシキという。これらのザシキはかつてはすべて板敷で、昭和十七、八年頃まで畳は一枚も敷いてなかった。必要時に板敷きの上にムシロを敷いていた。ムシロだけではごわつくので寝間の布団を敷く部分にはワラムシロの上に幅三尺長さ六尺のゴザ(薄べり)を敷いていた。ワラムシロを敷くとかなり保温できて暖かかった。ワラムシロは家にあったムシロ機で織ったが、野良仕事に使うムシロはカマスを買って縫い目をほどき再利用することが多かった。オクの部屋は両親が寝る以外には普段はあまり使うことがなく、子どもたちもあまり入らなかったという。北側の八畳のザシキは板張りのままで、仏壇の前のあたりだけ、三尺幅の長いガマムシロを敷いていたが普段は片側に丸めていた。ザシキに畳を敷いたのは昭和十七、八年以後のことである。
 土間に近い十畳のザシキの縁側近くの一畳分の空間に機織り機が置かれていた。母親は、東を向いて機織りをしていた。蚕を飼い、そのマユの中でも売りに出せないようなビョショマユ(クズマユ)や玉マユなどで自家用の着物の布を織った。ドマ側のザシキは子どもたちの寝間でもあり、昼間は子どもたちの遊び場でもあった。
 しかし、養蚕が始まると部屋の空間機能が一変する(図3-27)。とくにこのザシキはそれまでとは別世界になる。養蚕が大きな稼ぎであった時期、春蚕(はるご)、初秋蚕(しょしゅうさん)、晩秋蚕(ばんしゅうさん)と年三回飼うので、五月から九月いっぱいザシキは蚕の部屋になった。蚕は「おこさま」と言われて大事にされ、ザシキに子どもが入ろうものなら、親から怒鳴りつけられたものだという。ひと間のザシキで飼われていた蚕が大きくなると、ザシキふた間を蚕に占領されることになる。さらに、ザシキ空間からドマもふくめてすべての場所が蚕飼いに優先される。その間はオカッテの板の間で食事もし、寝るのも、休むのも、日常生活のすべてがこのオカッテの板の間であった。養蚕が始まると九人の家族は、夜は作業の合間を見てイロリの周りの板の間にムシロかゴザを敷き、そこにうすい布団を敷き、その上に布団をかけての雑魚寝であった。子どもの頃は現在のような暖房は無く家のなかは寒かった。
図3-27
図3-27
養蚕時期の家の中の空間の機能

 そうした親の姿勢が蚕は大事な稼ぎだと子ども心に刻まれた。こうした空間の利用のあり方は、養蚕農家にとってはどこも当たり前の事であった。昭和十年前後、ザシキの床板が傷み修理のため床板をはいだところ、床下部分に粘土の炉の跡があった。何のための炉だったのか、明治末生まれの父親からは、イロリの跡だとは聞いていないという。多分蚕飼いのための暖房用に作られたものであったろうという。冬の暖はイロリでとり、その他は火鉢がひとつあるのみだった。