回田では、聞書きではもっぱら用水が利用されていたようである。ただ一つ、大正時代に掘られた井戸が一か所、小学校の裏の隅にあった。
この家が、関野用水廻し堀の水を日々の生活用水として使っていたのは、昭和十六年の六月までである。人家の増加とともに用水が汚れていき飲み水として利用できなくなった。そこで彼の家では井戸を掘ることにした。仲町の井上ポンプ屋に頼み井戸は入梅時期の六月に掘った。井戸屋の話では、地上の乾燥時期とは違い、地下の十メートル、二十メートルという深さのところで、最も水が枯れる時期は六月で、地下水が一番枯れる時期に水が出るところまで掘ると、その井戸は枯れないという。掘ってもらった井戸は、その井戸屋の言葉通り昭和十六年以降現在まで一度も枯れたことはなかった。
井戸は約二十メートル強の深さまで掘った。土は関東ローム層で、その層は赤土で十メートルくらいの深さがある。その下は砂利層になっている。掘っていくと表土からおよそ十二メートルくらいのところまでは井戸枠無しで掘ることができた。そこから砂利層にあたった。砂利層の部分からはヒューム管という鉄条入りのコンクリートで井戸側を作っていった。木型の枠を井戸の側に沿って組み、そこにコンクリートを流して井戸枠を作っていく。三尺掘ってはまた木枠を組み、そこにコンクリートを流すといった具合にくり返して井戸を掘り下げていった。ここまで掘れば大丈夫だという地点は深さ十八メートルのところであった。さらに安全を期して八尺(二メートル四十センチ)ほど余分に直径五センチの鉄管パイプを打ち込んだ。その井戸のおかげではじめて関野用水に頼らずにすむようになり、流しの横の水甕も不用になった。子どもにとっては何よりもつらい水汲みの仕事から解放された。