二寸の水利権

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 この回田の関野用水は、元来小金井の関野新田の生活用水として引かれたものであった。それを回田町と喜平町の境あたりから分水して回田本通りと新小金井街道で区切られた回田町の南西のブロックの農家の家々を廻り、関野用水廻し堀として(図3-33)利用された。これは茜屋橋まで行って回田中通りに沿い関野用水の本流に合流し東の関野新田に向かっていた。その間、関野用水そのものは五日市街道の南側沿いを暗渠で走っている。その暗渠の水面は、五日市街道の一メートルくらい下を流れていた。そしてその南側沿いの三、四メートル下を玉川上水が流れている。
 この関野用水廻し堀については、「二寸の水利権」という伝承がある。彼が明治生まれの父親から聞いた話である。回田の前述した区域にはかつては用水が引かれておらず、そのため、小金井の関野新田の生活用水として引かれた関野用水を、分水してもらうことを関野新田に頼み、その結果「二寸の水利権」を得たのだという。「二寸の水利権」とは、川の堰の高さを上から二寸(六センチ)下げる、下げてその堰から超えてあふれた水をもらえるという権利である。こうした伝承があっても、回田に分水された分岐点にそうした堰を止める板は見たことはないという。かつて用水がかりの家々は年に一回用水の沼さらいという用水を掃除する義務があった。その時にまだ子どもだった彼は回田に分水する分岐点の場所に入って掃除をした。大人は入れないが、子どもの彼はちょうど良いと潜らされて掃除をしたのだが、その時に、関野新田の方に流れている用水を回田の集落に分水しているのがはっきり見えたという。そして本流の方は前述のように五日市街道の南側沿いに暗渠で流れていた。この廻し堀用水を使う家々は回田で八軒ほどであり昭和三十九年には十二軒であった。

図3-32
回田地域の土地割と水路(明治期作成であろうと思われる地図より加筆作成)