関野用水廻し堀の開削時期

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 この関野用水廻し堀の開削時期は、伝承では明治以降であろうという。いくつかの古い地図から回田の家と用水の関係をみてみよう。図3-31に示したのは回田の寛政五年(一七九三)の地割図である。村内の通用道を挟んだ南北に短冊型の土地が五十区画ほど分割されている。そしてこの図には廻り田新田の南から東へ縦断して何本かの生活用水、田用水が走っている。南から見ていくと、まず南端に東西に走る玉川上水、そこから分水した関野新田用水堀、鈴木新田田用水堀、田無村用水堀、鈴木新田用水堀、野中新田用水堀が通っている。ここには廻り田村を廻る「関野用水廻し堀」は記されていない。廻り田新田の家数は文政元年(一八一八)には十五軒とある。
 明治七年(一八七四)の地割と土地利用図には、まだ関野用水廻し堀はでてこない。つぎに図3-32は明治期に作成されたであろうと思われる地割図であるが、「関野用水廻し堀」は記されていないが、開削途中と思われる線が引かれている。そして明治初期のものであろうと思われる図3-33の「川敷変更略図 回田新田」と記された地図の写しには、関野用水廻し堀が新堀として記されていた。
図3-33
図3-33 回田の関野用水廻し堀の新設(『川敷変更略図』山田家文書より作成)
「川敷変更略図」回田新田
 この図は「川敷変更略図」(回田新田)と書かれた回田の関野用水廻し堀の図である。原図は北が下に、南が上にして描かれているので、見慣れているように方位をこの図とは天地逆にし、従って家屋の印の向きもそれに合わせて描いた。いつの頃の図か不明であるが、旧堀と称した用水が玉川上水から分水されて、新堀と称して、東に折れ曲がるように新しい用水堀が掘られた水路変更図である。「関野用水廻し堀」と土地の人が称するように、回田地区の南半分の家々が用水を利用しやすいように回して掘られている。

 『小平町誌』によれば、廻り田新田の開発は、武蔵野新田の中でも変わった開発形式であるという。本来武蔵野の新田集落が成立するには幕府に開発願いを出して土地を割渡されたのだが、廻り田新田の場合はその手続きを踏まず、享保十一年(一七二六)に野中新田の秣場(まぐさば)の一部分を買取る形で土地を取得したということが、その後の廻り田新田の生活用水の確保にほかの地域とは違った形態を取らざるを得なかった一因かもしれない。