旭ヶ丘住宅の暮らし

353 ~ 355 / 881ページ
 戦後建設された集団住宅のひとつである旭ヶ丘住宅に住んでいた昭和二年生まれの女性の方の聞書きから、当時の住宅の間取りとその屋敷まわりのありさまをみていきたい。
 彼女が住んでいた昭和二十一年頃の旭ヶ丘住宅のある地域は小川新田上水向(むこう)と呼んでいた。そしてこの旭ヶ丘住宅には二百戸のほどの平屋が建っていたという。彼女の住んだ家は、六畳の部屋が二間、四畳半の部屋が一間、合計三間の部屋があり、それに台所、玄関、便所があった。風呂場はなかったので、屋敷地に掘立小屋をこしらえて風呂桶を買い風呂場を作った。水道はまだ引かれていなかった。飲料水は井戸水に依っていた。四軒に一か所ほどの割り当てで掘られていた井戸は、初めは出ていた水がすぐに枯れて出なくなってしまった。そこで団地のなかに四か所ほど水の枯れない井戸があり、飲み水だけは毎夜そこで汲ませてもらっていたという。
 一方、風呂や洗濯用の水は玉川上水の水を汲み上げて使っていた。玉川上水には降りて水を汲むような場所はなく、岸から長い麻ひもをつけたブリキのバケツをなげ落して水を汲み上げ、家の風呂桶に空けたという。風呂桶に水をいっぱいにするために何度も往復したもので、水汲みは大仕事であった。玉川上水は、水を汲み上げるのは良いが、決して汚してはいけないといわれており、洗いものなどはしなかった。この玉川上水は現在よりも深くはなかったが、水量は多く落ちて亡くなる人もおり、入水する人もいたという。この玉川上水に並行して上水から分水された新堀用水が流れている。この用水にはカワバタという水汲み場が作ってあり、洗い物はそこで行なったという。またこの用水には「あげ場」という桟状の堰が作ってあり、そこに木々の枯れ葉やゴミが溜まるようになっていて掃除がしやすいようになっていた。
 さて旭ヶ丘住宅には前述したように台所はあったが、ご飯を炊くカマドは外に小屋掛けをして設置されていた。このカマドのことに話が及ぶと、彼女はご飯は「当然、家の外で炊いた」という。新しい集団住宅の家の間取りには農家のような天井の高いドマ空間はなかった。毎日の朝、夕のご飯を炊く時間には家の外に作ったカマドに薪が焚かれ、あちこちからその煙が立ち上っていた。
 便所は汲み取り式だったが、昭和二十一年~三年の間は汲み取りは来なかった。とはいえ、どの家も周りの庭に畑を作り自家用に様々に作付をし、みな肥溜めを掘っていた。し尿は自分たちで汲み肥溜めに溜めて畑の肥料にしたのである。各家の敷地は、現在の住宅に比べるとわりあいに広かったのである。