次に大沼田の稲荷神社の近くにあった第四都営住宅の間取りはどうであったろう。学園西町に住む昭和二十年生まれのある女性の記憶から昭和二十七年頃の間取りと屋敷まわりをみてみたい。当時の第四都営住宅の団地は一戸建てが十軒ほど、これに二棟続きの住宅が並んでいたという。部屋の間取りは四畳半一間に六畳の部屋が二間、それに台所、玄関、便所があった。ほぼ旭ヶ丘住宅と同じような間取りである。また同様に水道もまだ引かれておらず共同井戸の水を使っていた。人々は毎朝、手拭いと洗面器と歯ブラシを持ってみな井戸のまわりに集まり、洗顔と歯磨きを済ませた。朝晩のご飯の米とぎもお釜を持って井戸のまわりでといだという。この都営住宅にも風呂場はついていなかった。住宅地の近くには共同風呂はあったが、母親が彼女を連れて再婚し、この家に住むようになった時に、母親が嫁入り道具として風呂桶を持ってきたという。当時、家族は父母と子どもは息子二人に娘が五人(連れ子の彼女を含めて)の九人家族であった。四畳半に両親が寝て、ほかの部屋に子どもがそれぞれ寝たのだが、この家族数に対して部屋数が少なく、一部屋増築して一番上の兄がそこに寝ていたという。また玄関の横に便所があり、その位置は家の北西の隅になる。ここでは近所の農家が汲み取りに来てくれており、当時は便所のおとし紙は新聞紙だった。
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図3-36 大沼田の第四都営住宅に住んでいた方の間取りの覚書きより(昭和27年頃) |