あかしあ通りの住宅

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 昭和三十年代の新しい個人住宅については小平学園あかしあ通りのある家の間取りを例にとってみていきたい。話をうかがったこの家の主婦は、結婚後も子どもが生まれるまでは仕事をされていた。新築した家は、結婚して三年後の昭和三十五年に住宅金融公庫の融資を受けて建てたという。男の子と女の子の二人の子どもが生まれ、その子どもの成長に伴って、子どもにそれぞれの個室を設け部屋数が増えていく形で昭和四十五年、五十五年とほぼ十年ごとに改築、建て直しを行っていった。
図3-37
図3-37
金融公庫融資住宅の例(『小平町誌』より)

図3-38
図3-38
民間会社による建売住宅の例(『小平町誌』より)

 まず昭和三十五年に初めてここに建てた住宅の間取り図については図3-39に示している。
図3-39
図3-39
あかしあ通りのM家の間取り(昭和35年)

図3-40
図3-40
図3-39 の外観正面・側面図(昭和35年)

 敷地は八十坪、住宅の建坪は十三坪である。宅地は敷地の北側に建ち、六・五間×二間の東西に長いきれいな長方形である。六畳の座敷に三畳分の洗面空間のある風呂場、そしてほぼ六畳の広さの台所と食堂を兼ねたダイニングキッチン、それに四畳半の居間が、並列に並びどの部屋も日当たりの良い間取りとなっている。ダイニングキッチンの台所部分は北側に置かれ、トイレも北側に設置されて、この部分の配置のあり方は昔の草葺きの民家の間取りの取り方と同じである。玄関の位置は、家の中の生活空間をより使いやすく、しかも通りから家に入る便利さを考えて、北側に配置されている。そして南面は可能なだけ広く庭をとっている。家の北東の門のあたりに生活用水の排水の吸い込み穴が掘られ、それにはコンクリートの蓋がしてあった。この当時下水道はまだ完備しておらず、炊事と風呂水の生活排水はこの吸い込みの穴に集められるようになっていた。下水ができるまでの何年間かはこの吸込みを使った。
 畳の部屋が六畳、居間兼台所が六畳ほど、この二間の間に、玄関、トイレ、風呂場があっておおよそ六畳分の広さになる。そして一番東は四畳半の畳の部屋である。居間兼食事室、台所はひと間続きの板張でそこに食卓テーブル・椅子四客で食事をした。その部屋の棚に洋裁道具一式を入れ、その棚の蓋を引き降ろすとテーブルになる工夫をし、その端を食卓テーブルに載せて広い裁縫等の作業テーブルとなった。ミシンを置き、スタンという彼女の体型に合わせたボディを置き、棚にはこまごまとした洋裁道具一式が入っていた。この部分が彼女のプライベートな空間であった。結婚以前に洋裁は新宿の文化服装学園、和裁は代々木の武田和裁で技術を身につけていた。プライベートな空間は彼女の縫物時間の場であった。
 台所はプロパンによるガスコンロで煮炊きし、電気冷蔵庫があった。そしてこの部屋で暖房器具は火鉢一つに電気火鉢に炬燵だけだった。トイレの便器は大小兼用で使用する形式で、便器の後半部からは一段下がって作られ、男性が小便を立って使用できるように作られていた。片隅に竹製の落とし紙(ちり紙)の容れ物が置いてあった。便所は汲み取り式。タバコ屋で汲み取り券を買って、市から汲み取りにきた。玄関、トイレ側の対面には廊下を挟んで風呂場があった。ほぼ三畳。その半分は洗面・脱衣所で洗面と洗濯機(絞り機の付いた二漕式)、そこから一段降りたところはたたきになっていて、風呂の焚口に向かうようになっていた。そこには風呂焚きの燃料の薪、石炭(焚きはじめは薪を使い、良く燃え出したら石炭を使用)置き場、そして風呂を焚いたあとの消し炭入れの壷(この消し炭を火鉢の火に使う)が置かれていた。風呂はヒノキの桶風呂だった。洗濯機はあったが洗濯板も使い、干すのには張り板も使った。
 さて新しく住みついた家の中にはどのような道具があったのか、思い出すままに彼女が描いた道具も図3-41に示した。そして改築後の間取りまた新築した間取りについても以下図3-42に示している。
図3-41
図3-41
昭和35年当時の家具の一部

図3-42
図3-42
図3-39のM家の増改築(昭和45年)