江戸時代の作物と肥料

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 この章では、かつての農家の農事暦の流れと主要な農業技術を述べる。藩政期のようすはこれまで公刊されている諸史料からうかがうことができる。元禄十二年(一六九九)の「作物風損書上」(『郷土こだいら』小平市教育委員会 昭和四十二年刊)には、損害をうけた作物として、あわ・ひえ・芋・そば・陸稲・菜大根が記されており、この当時の作物名には粟、稗、芋(里いも)、蕎麦、陸稲、菜大根があがっており、正徳三年の明細帳にはこの他に大麦、小麦の作物名があがっているが、こうした作物が主要なものであったろう。また小川村の宝暦四年(一七五四)の村明細帳(史料10)(『村の生活5』小平史料集第19集)(表4-8)には「夫食大麦・粟・稗・芋相用申候」とあって、その当時には大麦、粟、稗、芋を食べていたことがわかる。
表4-8 村明細帳にみる作物(「村の生活5」小平市史料集 第十九集小平市中央図書館2006年刊)
年月西暦村名作物
正徳3年8月1713小川村大麦・小麦・粟・稗・芋・蕎麦・菜・大根
宝暦4年11月1754小川村大麦・小麦・芋・荏・胡麻・蕎麦・粟・稗・菜・大根
宝暦6年10月1756大沼田新田大麦・小麦・粟・稗・?・荏・胡麻、木綿類出来不申
寛政11年12月1799大沼田新田五穀之外、蕎麦・荏・胡麻・芋・粟・菜・大根・辛子等、畑え桑少々相仕立
文政4年5月1821小川村岡稲・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・荏・辛子・菜・大根・胡麻・大豆・芋類
嘉永3年8月1850鈴木新田田方晩稲、畑方大麦・小麦・粟・稗・大豆・小豆・芋・菜・大根・胡麻・荏・辛子
安政4年正月1857野中新田大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・芋・琉球芋・瓜・唐茄子
安政4年正月小川村小麦・蕎麦・薩摩芋・芋
安政4年正月大沼田新田田方中稲、畑方大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・荏・胡麻等
安政6年5月1859廻り田新田油実之類菜種、辛子種・荏種・綿之実無御座
明治3年8月1870大沼田新田産物蚕・薩摩芋・里芋
明治3年8月鈴木新田産物蚕・薩摩芋・里芋

 この芋というのは宝暦年代にはまださつまいもは作られていなかったので里いもということになる。次いで、作物の種や肥料のことが、「田方種物ハ晩稲、餅者かさ餅、粳者とす仕附申候、畑方種物大麦者早稲・中手・青麦・白麦・小麦者あみた・穂そろへ、粟者赤餅、粳者黒粟、稗ハ鑓穂、荏者赤から、胡麻者黒胡麻、此外ハ作附不仕候」と記されている。作物の種には、田には米、畑には大麦、小麦、粟、稗、荏(えごま)、胡麻の名前があげられ、幕末になると畑の収穫量があがり十分な作物が作られるようになり、小麦・蕎麦・薩摩芋といったものが食べられるようになったとある。さて肥料については同じく、「肥之義者田方ニ者ふすま、下肥を買揚仕附申候、畑方之儀(義か?)者木葉・麦から・芝草等え下肥並糠・灰多相用候」とあり、肥料は田には小麦を粉に挽いた時に残る皮の滓(かす)や、下肥を買って使い、畑には木の葉や麦殻、芝草などに下肥ならびに糠、灰などをかなりの量かけて発酵させて使っていたことがわかる。自給肥料としては、落ち葉を堆肥にした。また馬の飼育数が多かった時代-正徳三年(一七一三)は百五十八頭、享保十九年(一七三四)には百五十頭の馬が飼われている-には大いに厩肥(きゅうひ)でまかなったであろうし、それに金肥として糠や灰、そして下肥といったものを合わせて使っていた。下肥は江戸からはるばる運んできたことが前述の明細帳には記されている。
 前述した肥料は、戦後も土ごしらえの基本的な肥料として使われていた。そして小平市だけでなく武蔵野一帯の、畑の土の軽い地域では蒔いた種が強風に土とともに巻き上げられないために、「つくて」といって灰や堆肥を混ぜた肥料を韵んで畑土に叩きつけるように落とし、その上に麦の種などを蒔いたものである。
図4-29
図4-29 種籾桶(小平市民具庫所蔵品より作成)
 桶側には「大正弐年 ウルチ粟種 昭和参年 モチ粟種 大正八年□種 四十三年□種 二十七年 モチ粟…」など記され、また墨で消しては新しく書き直されている。その他に、三十二年、三十三年、三十七年などの年号が記され、明治時代から昭和にかけて使用されたもののようだ。

図4-30
図4-30
灰桶 飯山達雄氏撮影・寄贈 小平市立図書館所蔵(1957年頃)