モロキュウリ作りへ

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 自然の恵みによる雨水と、堆肥、鶏糞、灰、下肥といった有機肥料を使い、季節に対応して作られていた畑作物は、昭和三十年代以降は大きく変わっていく。化学肥料を使い人工的な温度管理のもとで行う農業技術が普及し、農家の作付品目も、それまでの麦やさつまいもではない様々な換金作物が作付されるようになってきた。ここで紹介するモロキュウリ(第二章第二節2)、軟化ウドもそのひとつである。これは、水、薬品、電気、そして温室などの設備を必要とした。この項ではビニールハウス栽培の先駆けとなり、旧来の農家経営からこれからの時代を生き抜くにはどうするか、回田の昭和二年生まれの農家の若者の試行の例を述べたい。モロキュウリの特産地とされていたのは東京都内では江戸川である。ほかに静岡、奈良にも産地があった。昭和三十年代に彼が選んだ商品作物はモロキュウリである。割烹料理屋などで出されるモロキュウに目をつけた。モロキュウリ作りは技術を要し、換金物としての価値づけも高いものだった。
 昭和のはじめ頃は、キュウリ自体は農家で作られていたが、それは現在のキュウリの栽培方法と違って、カボチャやスイカと同じように地這え栽培で、現在八百屋で見るキュウリとは違い丸太棒のように太くて大きく、一人で三本も抱えればかなり重い、そういったキュウリであった。表皮は茶色で、種を取って売り物にし、果肉はすべて漬物にされた。
 さて回田の若者が栽培しようと考えたのは、花が咲いて一週間くらい過ぎた頃に長さ五センチから七センチ位で収穫するモロキュウリである。彼の試行錯誤が始まった。寒い時期の栽培には暖房が必要だが、その施設がなかなか難しく、静岡県焼津市の農場試験場の温室、東京の江戸川の農事試験場、千葉県幕張市の東京農業大学の農場などへ通う日が続いた。そして昭和三十一年、彼は家の畑の一部にビニールハウスを完成させた。広さは八十三坪(約二百七十四平方)、屋根の棟までの高さは三メートルあり、小屋の骨組みは木製で廃材を利用、その小屋組みをすべて自分の手で建てた。そのハウスの周囲に全面ビニールを張った。小平でのハウス栽培の先駆けである。ハウスの床下を一面深さ一メートル掘り下げ、その中に生ごみを埋め込み、糠などの醗酵材を混ぜて発熱を促した。そしてその上に耕土を盛った。いわば大型の苗床である。当時はまだビニールは入手しにくかった時代のことである。そしてハウスの中の暖房は、泥製のコンロを十個以上配置し、木炭を燃料にして火を起し、温めることにした。密閉したビニールハウスの中で問題はコンロのガスである。これを抜かなくてはいけない。この排気も試行錯誤が続いた。一番良かった材はトタンで、この薄い鉄板で作った煙突で排気し、それ自体も温まり、部屋の暖房効率は上がった。このビニールハウス建築の経費で一番大きかったのはビニールで、八万円かかったという。