見よう見まねで

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 モロキュウリ作りをやめた後、昭和四十年頃から彼は軟化ウドの栽培に集中する。軟化ウドの売り込み先はやはり築地市場である。
 ウドは、日光を浴びて育つと濃いグリーン色になる。それを、地中に掘った軟化ムロ(通称穴蔵)の中で、日光を当てずに水をたっぷり与えて育てると、真っ白で柔らかいウドが育つ。それを軟化ウドという。これは通常の出荷日よりも早く市場に出荷できるため製品は高値がつき、農家にとっては家計を潤す大切な商品作物であった。現在も小平市内にはウド畑を見ることができるが、最も盛んに作られていたのは昭和三、四十年代であった。三十年間ほど作り続けた農家もあった。
 東京で進んだ農業の急先鋒といわれた東京都武蔵野市のある農家は明治期に軟化ウドの栽培に成功し、東京ウドの本家ともいわれた。先代から先進的な農業技術を進めてきた家で、軟化ウド栽培以外にスイカの接木、そして特殊な形のトンネル栽培のキュウリ作りをやってみたり、その当時としては画期的な手法で農業経営を行っていた。この家にはあちこちから大勢の人が習いに来ていたという。彼も四、五回ほど訪ねてウド作りを見せてもらい、自宅で試行錯誤をくり返した。