昭和十九年、小平村は小平町となったが、地域の中に中心となる大きな商業集落がなく、東京府から視察に来た役人が「一体どこがまちになるのだ」と皮肉ったエピソードが『郷土こだいら』に紹介されている。この間の事情は町から市になっても大きく変わることはなかったようである。現在の市域をみても、その域内にJR線一本、私鉄四本が走り、七つの駅をもち、市境にも三つの駅があるものの、市域全体をみたときに中心的な役割を果たす街場的集落をもつ駅はない。一時、「市報こだいら」の誌面で、「小平にはヘソがない」といった指摘がされていたこともこの間の事情を反映していよう。
小平の東に接する田無(たなし)(西東京市)には、青梅街道沿いに商業的色合いの強い家々があり、小平市域の田無寄りの家々は、買い物といえば田無に出かけていた。こうしたことについては本章第三節で述べるが、旧小川村では、買い物は所沢の町(埼玉県)に出かけることが多かった。西隣の立川市は、大正期後半から陸軍航空隊の諸施設をはじめ、軍関係の施設が次々と作られ、大正期半ばから末期にかけて、戸数、人口ともに二倍以上の増加をみせ、地域として賑わいをみせており、東京都内では東京市、八王子市についで昭和十五年に三番目に市制が施かれている。
これにくらべると小平は比較的農村的なおもかげをのちのちまで残していた地域といえよう。小平の茶は所沢に集められ狭山茶として売られ、織られた布は村山紬(つむぎ)として流通し、大根はかなりの量が練馬方面に出荷され、練馬大根として知られる沢庵の材料となっていたが、こうした事例が示すように、小平は集散地ではなく、農産物や農間稼ぎの品を集散地に提供する性格の土地だった。