小平の市

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 現在、小平で歴史をもつ市(いち)といえば、三月二日に小川寺(しょうせんじ)の門前でひらかれるだるま市ということになろう。元来この市は小川村名主の小川九郎兵衛宅の前で行われていたという。これは小川家の係累の家が瑞穂(みずほ)(西多摩郡)にありダルマを作っていたため、そのつながりで同家の前で売っていたとの伝承があるが、市の場所はそれからその斜め向いの家に移り、昭和四十年頃に小川寺に移ってきた。斜め向いの家に移ったいきさつは判然としないが、同家ではだるま市になると、どこからか香具師(やし)の世話役が来て露店の場所割りをしていた。露店はダルマを扱う店が大半だが、茶椀やフルイ、ザルなどを扱う店も出ていたという。雨の日はこの家の廊下や縁側、また露天商の車の中に品を並べていた(図5-1(左))。小川寺に移ったのは、自動車の普及で一般の家の庭先で店を開くことに支障をきたすようになったからだという。
図5-1左図5-1右
図5-1
(左)かつてのだるま市、小川九郎兵衛宅の斜め向かいの家で行われていた頃の様子。写真正面が青梅街道、左側が居宅、右側が倉庫になる。本文参照。1965年3月1日撮影 個人所蔵 (右)神棚にまつられているだるま 小川町(2009.8)

 なお、江戸時代中期に、小平では小川村と鈴木新田に市場が設けられていたことが史料に記されている。これについては、『小平市史料集第十九集 村の生活5 生業(農業・商売・村野)市場』の解説に史料を引用しつつ紹介されている。それによると、享保十九年(一七三四)に、立川の中里新田に市場が認められたのを機に、前述の二村が市を立てることを申し入れ、元文四年(一七三九)に老中松平乗邑の許しを得て市場開設が認められている。小川村は二日、十二日、二十二日鈴木新田は七日、十七日、二十七日という日を代官に届けでたのだが、小川村の市場は開設されたものの賑わうことはなかったようである。鈴木新田については幕末頃まで続いていたらしい。ただ、かつて鈴木新田の宝寿院の前には毎月二十四日に市がたち、明治後半まで賑わっていたという。これは同寺院に祀られている子育て地蔵の参拝客を相手にした市であった。
 しかしこの章では逆に、小平の農村部に存在していた商業的な、あるいは職人的な要素をみていく。図5-2は、『小平市三〇年史』に収められている昭和三十年七月調査の小川の青梅街道沿いの商店の分布である。これで見る限りではこの地区には商店がさほど多くなかった様子がうかがえるが、商業的要素が必ずしもこれだけだったということではない。昭和十九年に店を閉じた小川の慶徳(けいとく)屋という荒物雑貨全般を扱う店は近隣に知られており、また「根っこ坂」の呼称で知られる蚕種屋も五十人を超す使用人をかかえ、四里四方に知られた大きな商いを営んでいたという。
図5-2
図5-2 青梅街道の商店(『小平市三〇年史』より)
1 炭 2 食料品・雑貨 3 洋服仕立 4 床屋 5 居酒屋・たばこ 6 不詳(集会所ではないか) 7 ガソリン 8 運送業 9 自転車 10 電気器具 11 もち菓子 12 雑貨 13 建築請負 14 製めん 15 文房具・菓子 16 自転車 17 自転車 18 酒 19 ガソリン 20 魚 21 桶 22 自動車 23 製めん 24 建具 25 たばこ 26 もち菓子 27 床屋 28 精米 29 石材 30 材木 31 菓子(番号は図中の番号と対応。)

 こうした点で端的な例をあげれば、小川村の六代及び八代の名主をつとめた弥次郎は玉川上水の通船計画をたて、その子東吾は享保元年(一八〇一)に尾花沢銀山の開発を企て、木曾、天竜地方の木材の伐採を手がけたといった動きがあげられよう。こうした事跡については、名主クラスの家の商業的、あるいは企業的試みとして、『近世編』の巻で取り扱われている。ここではあくまで地域内での農村集落における非農業的な稼ぎの一面について述べていきたい。これは一代でおわる稼ぎの場合もあれば、数代にわたって受け継がれていく場合もある。暮らしをたてていくために農家が取り入れたそうした稼ぎ方の諸相のなかに、非農業的要素の萌芽や断続的存在をうかがうことができる。
 伊藤小作がまとめた『郷土夜話 その一』に次のような文章がある。「小川五番には大工さんの棟梁が多かった。留大、重大、吉大、寅大等、名の通った棟梁がいた。四番には店屋が多く近隣に聞えが高く、国分寺野中方面から、一番繁昌した慶徳屋へ慶徳屋へと、大八車や、人の影が絶えなかったという。その他だんご屋、とうふ屋、油屋、荒物屋、まんじゅう屋、すしや、炭屋、さては居酒屋までおよそ二十軒位の店が二、三の宿屋をはさんでずらりと並んでいた。」
 これは「明治大正時代の小川の通り」と題された文の一節で、この稼ぎの多様さをみても、街道筋の農家は農業のかたわらで、様々な余業を行っていたことがうかがわれる。ただ、大工職人の場合でも、その職だけで暮らしていた例は少なく、家族は屋敷裏に続く畑で農業に従事していることが多かった。換言すれば、どの家も同じような開拓地割にのって暮らしをたてながら、それぞれの家はその経営維持において個別に工夫をし、選択をして時代を乗り切ってきたことを示している。前述したように、農業以外の稼ぎには世代を超えた永続性がない場合もあるのだが、そうした姿勢自体は受け継がれていった。農村地帯が農村地帯として続くということは、内に多様な要素を含め、その消長を重ねていくことでもあった。
 
表5-1 鈴木新田の農間商渡世(『小平市三〇年史』より)
開業年代軒数店の種類
安永7年 (1778)2「酒、醤油、温鈍、蕎麦、荒物、諸色」「酒、醤油、穀物、荒物、紙、木綿」
天明8年 (1788)1「大工職」
寛政5年 (1793)1「酒、醤油、温鈍(うどん)、蕎麦」
寛政8年 (1796)1「酒、醤油、荒物、木綿」
寛政10年(1798)3「豆腐」「荒物、小間物、諸色」「髪結床」
享和3年 (1803)1「茅屋根職人」
文化元年(1804)1「菓子」
文化5年 (1808)5「菓子」「素麺(そうめん)」「雛人形・祝道具」「酒、醤油、温鈍、蕎麦、荒物」「糸、繭、紫根仲買、酒、醤油、温鈍」
文化10年(1813)1「大工職」
文化12年(1815)1「温鈍、蕎麦」
文政元年(1818)9「酒、醤油、小間物」「時々青物」「糸綿」「豆腐」「肴(さかな)売り」「温鈍、蕎麦」「荒物、釘(くぎ)、鉄物」「茅屋根職人」「綿打職人」
文政3年 (1820)2「時々青物」「古着」
文政4年 (1821)1「紺屋」
文政6年 (1823)2「古道具、箱物」「豆腐」
注「 」は同じ1軒で扱っているものを示す。  資料:鈴木家文書「鈴木新田諸商渡世向取調書上帳」

表5-2 村明細帳等に見る農間余業
西暦年 月村 名商 人 及 び 職 人
1754宝暦4年11月小川村大工1人、左官1人
1756宝暦6年10月大沼田新田一切無御座
1799寛政11年12月大沼田新田籠作3人、桶屋、草屋根屋2人、左官、水車・油絞り等3人
1821文政4年5月小川村商売屋13軒、職人12人
文政4年6月大沼田新田屋根屋4人、商人5人、水車2ヵ所、 酒造・醤油造1ヵ所
1827文政10年9月大沼田新田農間商并諸職人8軒
文政10年9月廻り田新田農間商并諸職人7軒
文政10年鈴木新田農間商并諸職人30軒、質屋2軒
1838天保9年7月鈴木新田新規分3軒
1841天保12年7月大沼田新田商10軒
1850嘉永3年8月鈴木新田商売屋10軒、諸職人屋根葺3人、大工4人、建具2人
1855安政2年3月鈴木新田商人宿1軒、農間商10軒、農間質屋2人
1857安政4年8月大沼田新田商人4人、水車2ヵ所
1880明治13年9月小川村農業180戸、工業14戸、商業25戸、雑業21戸
『小平市史料集第十九集 村の生活5』(小平市中央図書館 平成18年)より