電話を必要とする家

442 ~ 445 / 881ページ
 小平郵便局が電話加入事業を開始したのは昭和五年三月である。この時、小平局が誕生したことになる。この時の加入者数は二十九人であった旨『小平町誌』に述べられている。それから九年後の昭和十四年四月の『東京府電話番号簿』(八王子郵便局編纂)記載の小平在住者の電話番号を一覧表にしたのが表5-3になる。昭和十四年といえば、この『小平市史』の調査でお世話になったいく人もの古老-大正半ばから大正末期生まれ-が青年になった頃の時代であり、この電話帳にもとづいての聞書きも行うことができた。以下はその聞書きにも拠っている。
 
表5-3 大正末期の小平の電話の数と電話番号
小平局
電話番号職 業住 所
0小平郵便局小平村小川
1小平郵便局小平村小川
60小平郵便局小平村小川
2米穀商小平村小川坂北側
3料理旅館小平村小川坂北側
4津田英学塾小平村小川鷹野街道外
5菓子商小平村中宿北側
6土木建築請負業小平村小川坂南側
7毛皮獣飼育場小平村小川坂南側
8第一小平尋常高等小学校小平村小川坂南側
9雑穀荒物甘藷問屋小平村小川坂北側
10雑穀肥料生繭商小平村小川坂北側
11小平村小川窪北側
12官吏小平村小川窪南側
13自動車業小平村小川中宿北側
14繭糸商小平村小川上宿北側
15雑穀荒物商小平村中宿南側
16津田英学塾小平村小川鷹野街道外
17中等教員小平村小川坂北側
18蚕種製造業小平村小川坂南側
2119医院小平村上宿南側
2220貨物自動車業小平村小川下宿南側
2321自動車業小平村小川下宿北側
2422酒造業小平村上宿南側
2523雑穀肥料運送業小平村小川坂北側
2624青物商小平村野中新田
2725会社員小平村小川坂北側
2826荒物商小平村小川中宿南側
2927医師小平村大沼田新田354
3028小平村役場小平村小川新田
3129農業小平村小川下宿北側
3230材木商小平村小川下宿北側
3331農業小平村小川窪北側
3432東京商科大学小平村小川鷹野街道外
3533第二小平尋常高等小学校小平村小川新田
3634医師小平村野中新田与右衛門組
国分寺局
3711材木商小平村廻田新田北割62
3856貨物自動車運送業小平村小川新田山家952
39100箱根土地株式会社員小平村小川新田701
40101東京商科大学予科小平村小川
41120農林省獣疫調査所小平村鈴木新田
小金井局
4255小平村鈴木新田下鈴木
43135小金井ゴルフ株式会社小平村鈴木新田1257
『東京府電信番号簿 大正14年4月1日現在』より。「─」は職業不明。本文参照

 小平局に属する電話が三十六本、それ以外の局で、小平在住者が登録されているのは、国分寺局に五本、小金井局に二本となっている。この表では公的な機関やそれに準ずるものは名を出しているが、個人名の場合は伏せ、番号で示している。以下、これをひとつずつみていこう。
 ①から③は小平郵便局である。電話を三本引いているが、各々「公衆電話並電報託送用」「一般事務用」「障碍試験用」とされている。④は小川五番付近に店を開いていた米穀店で「米伊」という名で知られていたが、屋号はコメヤで通っていた。⑤は現小川駅近くにあった料亭旅館で、屋号はオチャヤ。こうした店は小川ではここしかなかった。⑥は現津田塾大学である。⑦は菓子屋で、小川の人たちは祝儀、不祝儀の折のまんじゅうはここに頼んでいた。⑧は小平の土木建設業者の嚆矢(こうし)ともいうべき家で、元来大工であり、屋号は名の一字「重」をとってジュウデエ(重大(工))と言っていた。⑨は毛皮獣飼育場となっているが、この稼ぎはながくは続かなかったらしい。蚕種商として知られていたが、当時、狐などを飼っており、そのエサのヒキガエルを一匹一銭で買いとっていたため小川の青年達は村山方面に獲りに行っていたという。⑩は小学校であり、⑪は表に記されている品のほかに酒も扱っていた。この店は第九章第二節でとりあげた店の一軒になる。⑫は表にあるように商店であり、⑬については不明。⑭は表に「官吏」とあるが、警視庁勤務だったという。⑯、⑰は各々表記のようにマユを扱う商人、雑穀荒物商であり、⑰は灯油や油なども売っていたという。⑱は⑥と同じく津田塾大学である。⑲は教員、⑳は蚕種屋であり、澡は小平神明宮の神官の家であるが、医者でもあった。この番号簿には「医院」として記載されている。ただしこの時代、外科の大きな手術を受けるとなると、所沢に行くしかなかった。昭和四、五年の頃、小川の農家の人が盲腸で所沢の病院に入院した。リヤカーにのせて運んで行ったという。二百円余りの治療費を払ったと噂になった。土地が一坪一円ほどの時代である。
 22は、現新小平駅付近にあった運送店で、昭和初期にすでにトラックをもっていた。当時トラックは一台二千円ほどの値段だったという。運ぶ荷は市場への野菜が主であった。「タイヤ一本が八十円だとよ」と人々はうわさしていたという。さつまいもと麦の畑からの収入が一反六十円の時代である。ガソリンは一ガロン三十五銭で、小平にあった精米業者が、リヤカーに手まわしの計測注入器のような道具を積んで売りにきていた。
 23は「自動車業」とあるが、屋号はタケヤ。24は造り酒屋で、この店については本章第二節でふれている。25は現小川駅近くにあった店で、26は青物商とあるが、当時ここの主人は株相場にも手を出していたという。27の人物については不明。「会社員」とあるから地元の人ではなかったのかもしれない。28は屋号をキイムさん(喜右衛門さんのなまりか)で、ムシロ、縄、コモ、ゴザ、麦稈帽子などを売っていた店として記憶されている。29は「和田済生院多摩済生院」の院長宅になる。この病院は木造二階建ての結核専門の病院であったという。この病院専門の葬儀屋がいて、その霊柩車がしばしば病院に出入りしていた。周辺の人は「また今日も霊柩車が行く」と言いつつ見ていたという。30は役場である。31は農家だが、ここの主人は26と同様、株の売買を行っていた。電話を引いたのはそのためであるという。主に生糸の先物相場だった。畑仕事から戻ると蔵の中に入り、そこに置いている鉱石ラジオで株の状況を聞くのが日課だった。小平の農村部で四、五人株売買をする人がいて時々情報交換をしていた。26の主人もその一人である。株式市況を知るために新聞も取っており、家の中に株の動向を記録するグラフを作っていた。株で損をしてかなりの土地を手ばなしたという。万一株で大損をして差押さえなど受けた時のそなえとして電話帳の電話所有者の名は、親類の女性の名で登録している。32は現新小平駅の近くにあった。当時小川で唯一の材木商である。
 33は農家、34はのちの一橋大学小平分校、35は小学校である。36は昭和病院の院長宅になる。37は材木商、38は貨物自動車運送業、39は箱根土地株式会社の社員であり、40は瀉と同じく一橋大学、41は農林省獣疫調査所、42は不明で43が小金井ゴルフ株式会社となっている。