電話を引くこと

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 小平市域が自動式電話に切りかわったのは、昭和三十九年五月十日からのことで、この表の時代の電話器は、柱に取り付け、手まわし式の柄をまわして交換手を呼びだす形のものである。当時は地域の電話局ごとに毎年増加分のわりあて台数が決まっており、電話を引くことを希望する人は、申込んで待たなければならなかったが、一般人の申込みにはなかなか順番がまわってこなかったという。小川で昭和三十四年に商売を始めたある家では、そのわりあての目途がつかないため、家業を廃業して電話を止める家があることを伝え聞き、そこから個人的に購入した。これはわりあてを待つ場合よりも相場が高く、当時の金額で二十万円支払ったが、畑一反が六十万円で売られていた時代のことだったという。また、昭和四十年頃のことであるが、小川のある家が事業を始めたため電話を引くことになった。小平局ではわりあてがないため、国分寺局のものをわけてもらってとりつけたが、そのための電線、電柱の費用は自己負担となり、当時の金額で六十万円ほど要した旨の話が伝わっている。戦後十五-二十年を経た時代でも電話を引くとはそうした手間や負担を必要としていた。
 表5-3で示した昭和十四年当時、役場や学校、また病院やその院長など、いわば公的な機関とその長、また小平に分譲を開始していた箱根土地の社員、警視庁勤務、教員、ゴルフ会社などを除くと、小平の地域内の民間で引かれていた電話数は二十二本、うち商売を営んでいたのは二十ほどになる。当時の小平の戸数は千百八十戸ほどであるから、電話連絡という形で切実に地域の外との連絡網をもつ必要があったのは二パーセント弱になろう。この近代的な情報伝達機器の普及でみるかぎり、この時期の小平地域の商業的性格は、まだそれを備えることをさほど必要としなかったものだったといえよう。