家と墓

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 さて、この青梅街道沿いの石材店は、かつて農家であった。一町五反ほどの畑をもち、桑、大麦、小麦、さつまいもなどを作っていた。両親と兄弟三人姉妹五人の家族構成であったが、長男が絵を描くことや造形が好きで、親類筋にあたる久米川(くめがわ)(東村山市)の石材店に修業に行き、戻ってきた。戻ってきたのは昭和四、五年のことらしい。長男の修行中は、次男を中心に農業を営んでいたが、石材店開業とともに養蚕は止めた。
 ここでの記述は、この長兄を手伝った弟(大正十年生まれ)の方からの話をもとにしている。当時の注文の多くは墓石になる。これは彫字込みで値が決まっていた。字は、注文主の檀那寺の住職が和紙に書き、それを注文主が持参することが多かったが、時々書家に頼む人もいた。最近は「何々家の墓」と彫られている墓石が増えたが、かつては子が親の墓石をたてると一人前と見られていたため、その代ごとに墓石が作られていた。いわゆる夫婦墓(めおとばか)で、一人が亡くなると並べてつれあいの戒名も刻むのだが、生きているつれあいの戒名には朱を入れておき、そのつれあいも亡くなるとその朱を落とす。継承される代ごとに墓石が増えていくことになるが、それだけ寺の、あるいは内墓(屋敷地内の墓)の面積は広かった。
 昭和初期、大学出の初任給が三十円ほどの頃、墓石は安いもので四十円、高いものであれば二百円ほどの費用を要したという。値にこれだけのひらきがあったのは石質と大きさとによる。当時、花崗岩の普及は少なく、硬い石は伊豆石、俗に本小松(ほんこまつ)という真鶴(まなづる)(神奈川県)付近から出る安山石だった。この石は値が張った。石臼でも、豊かな家はこの石のものを使っていた。ほかにやわらかく加工しやすい新小松という石材があり、これは安かった。山梨県の昇仙峡や福島県の二本松付近から入っていたという。花崗岩は水戸市(茨城県)近郊から入っていた。墓石の大きさは、一寸刻みで八寸角から一尺三寸角くらいが標準だった。
 こうした石材は、各地にある石の問屋に注文し、貨車で小川駅に着いた。そこから運送店のトラックで店まで届けられる。