墓石を彫る

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 届いた石材を、石の目を見てゲンノウとタガネで打ち割って整形していき、次にそれを磨き、字を彫るという工程になる。タガネは十数種類、数十本を用意するが、まず朝、暗いうちに、その日加工する石の質や作業にあわせてタガネの焼入れを行う。この焼入れはフイゴを用い、コークスを燃料としていた。この焼入れを暗いうちに行うのは、熱で変わっていくハガネの色を見て焼入れ温度を判断するためで、太陽の光が入ると勘が狂うからである。タガネによる石の整形作業も、当初は丸い形状の石材が届き、手間がかかったものだが、のちに粗い角状の材で届くようになり作業が楽になった。ただ、当時の石工は防塵マスクなど使わないため、塵肺(じんぱい)になることが多かった。寒い時期は紙を貼った蚊帳を張り、その中で炭をたいて作業することもあり、石粉をよく吸いこんだ。当時は塵肺といった医学的な知識はなく「石屋の早死(はやじに)」と言われていた。
 この家では、石材店を開いてすぐに弟子をとった。多い時には住み込み二人、通い二人の計四人の弟子をおいていたという。弟子入りしてはじめての作業は石みがきになる。墓石四面のひとつの面をひとヒラというが、ひとヒラずつ金剛砥石でみがく。ひとヒラ磨くのに一日を要した。
 彫字は、掘った断面がV字形になる薬研(やげん)彫りと、方形状になるイッパイ彫りとがあったが、より手間のかからない前者で仕上げることが多かった。この字彫りは弟子に任せず、長男から手ほどきを受けたこの店の次男か三男が手がけていたという。ことに彼岸前の時期は忙しかった。彼岸には墓石を建てて供養をしようと、注文が殺到したからである。墓石が彫りあがると、リヤカーで運んで注文主の墓所に建てた。墓石を納めた家とのつながりはその後も続き、故人の年忌供養に招かれることも多かった。やがて戦争が激しくなると、忠霊塔や忠魂碑などの受注も増えた。これは終戦後も続いたが、GHQの統治下では「忠霊」「忠魂」といった語を避けて彫らねばならなかった。
 昭和四十年頃、石どうろうブームが起り、また同じ頃、いわゆる名石ブームもおこり、「佐渡の赤石」のような石を、室内に飾ってその風情を楽しみ、また蓄財の一端にもと考える人が増え、石材店も墓石に加えてそうした品を扱うようになった。福島県や群馬県方面から毎日のように同店に名石を積んだトラックが売りに来ていたという。現在、墓石はアフリカ産やオーストラリア産のものが多く入り、整形も中国に出し、彫字も多くは工場に出す形になりつつある。現在この店は三代目になるが、二代目までは、まだ店で石を作工することがあった。しかしその作工道具も、かつての総鋼のものから、タンガロイを含むものに変わり、道具の手入れも往時に比べれば、ほとんど不要となっている。