桶屋からの転職

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 昭和初期頃の青梅街道沿いの小川七番に、小平で最初の材木屋が店を開いた。当時小平には製材所もなく、材木屋は成り立たないだろうといわれていたなかでの開業だった。
 この店主はそれまで桶屋をしており、その屋号もオケヤといった。青梅街道から野火止用水までの短冊状に割られた土地をもつ半農半職の桶屋だった。材木店への転業は昭和四、五年のことらしい。その当主は、それまで桶屋職人をしていただけに、木材についてはその仕入れから木取りの方法まで長じていたが、職人渡世ではもの足りない思いをもつ、どこか商売っ気のある人だったらしい。
 材は近隣の林や山から買いつけ、小川で木挽(こびき)の技をもつ人を抱えて枝おろしと伐採をさせ、製材所に持って行き屋材として販売した。製材所は立川駅前や国分寺、東村山にあったため、そこまで木をリヤカーで運んで行き、切った材もまたリヤカーで持ち帰ったが、大きな材のときはトラックを雇った。近隣の林や山からの材は、ケヤキやカシが多かった。また飯能(はんのう)(埼玉県飯能市)の材木問屋からもとりよせたが、これは杉、檜が多かった。近隣のケヤキを買った時は、根元の部分を輪切りにしておき、飯能から臼つくりの職人を呼んで中を刳(く)らせて木臼を作らせた。これを店に並べておくとよく売れた。深川(江東区)からはベニヤ板を仕入れた。これはトラックで運ばれてきた。一月二日には深川から初荷の旗を立てたトラックが荷を運んで来た。埼玉県比企(ひき)の建具店からは障子(木枠のみ)や雨戸を仕入れて売った。これも近在には取扱う店が少なかったためよく売れたという。
 材木は、建前を頼まれた大工職人が見積もりに来て買うことが多かった。その時に内金をもらい、材を届けて残金を受けとるのが常だった。日々現金が動く店のため、出入りの米屋がいて、近辺の家と違って家族は毎日米の飯を食べていたという。また、この家の子どもたちは、昭和の初め頃、洋服を着てゴム靴をはいていた。当時そうした服装は青梅街道沿いの農家では見られず、箱根土地の分譲住宅、いわゆる「勤め人」の子弟のみにみられた現象だったというから、旧農村部の小川にあらたな風を呼びこんだ家ともいえる。
 この店主の長男は戦死したため孫があとを継いだ。彼は大学を卒業した後、なじみの深川の木材問屋でしばらく修行をして店を継いだが、今から二十年ほど前にこの材木店は店を閉じた。近隣に大きな木材店が次々とできていき、その余波が大きかったためという。