大根不作の年には、できのよい大根を市場に出荷してしまう農家もあった。また、束の外側にはできのよい大根を並べて見ばえよくしておく農家もあったため、内側の大根を抜いてそれを基準に値をつけ、伝票を渡して次の農家をまわっていた。
店の敷地内に、ほぼ六尺四方で、深さ六尺と九尺の二種類のコンクリートで固めたプールがいくつも作られており、運んできた大根はそこに漬ける。それを一層並べることをヒトカワといった。並べて塩をふり、重しの石をのせる。重しは当初、一斗ダルほどの大きさの石を用いていたが、のちに長さ三尺柱状の石に変え、それをクレーンで持ち上げて並べるようになる。運んだ大根は次々と漬けていく。日々、トラックで大根が運ばれてくるが、一晩漬けておくと前日漬けた大根の層の厚さは半分以下になる。新着の大根を次々と漬けるが、それまでの大根も下のものを上にして漬けかえる。出荷の早い「早出し」といわれるものは塩を甘くする。これは正月には出荷する。ゆっくりと漬け込むものは漬けかえしをしながら早春まで置く。
そうした段取りを指図するのは、新潟から来た出稼ぎ人の頭であり、五十人の内で各々作業の分担が決まっていた。追いまわし(雑用係)として入った新人も序々に作業を覚え、分担作業を任せられるようになる。報酬は日給月給制をとっていた。最も忙しいのは暮れまでである。それまでに漬け込みをひととおり終えなければならない。正月の休みは元旦のみになるが、春先になると作業はゆっくりとしたものになる。
図5-5 昭和30年頃の漬物店 (左)初荷風景。(中)店員とオート三輪車。(右)大根をつけるコンクリートのプール 個人所蔵 |
当時この店では店頭での小売りはせず、販売店にオート三輪で卸(おろ)していた。それ以前、自転車でリヤカーを引いて卸しに行くのだが、リヤカー一台に四斗樽をふたつ積み、ジャリの道を立川まで往復するのは、半日を要した。当時はパン屋や煙草屋でも漬物を置いてくれた。そこに四斗桶でおろしていった。この店の脇に走る道を基準にして、村山、川越方面に一人、立川方面に一人、東京都心方面に一人、それに問屋の倉庫まで運ぶ人が一人、計四人で地域を分担して出荷していたという。
そのため桶も多く準備しておかねばならず、店の敷地内に、店お抱えの桶職人が一人おり、このほかに中野区から通いで来ていた二人の計三人でその製作、補修を行っていた。塩は塩問屋からトラックで運ばれてきており、糠は米屋からカマスで届いていた。
元来沢庵が主流だったが、のちに近所の農家に頼んで瓜を作ってもらい奈良漬を始め、また白菜漬、紅しょうがやラッキョにまで手を広げていった。しょうがは近所の農家にも作付を頼んだが、埼玉、群馬方面にも買い付けに出かけた。昭和二十年代後半以降は大根も県外から買い付けるようになっていった。次第に沢庵の比率が少なくなり、浅漬がよく売れるようになった。この変化がはっきりとあらわれたのは平成になる頃であったという。