出荷と販売

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 前出の『小平ふるさと物語(二)』には、忙しい季節には五十人もの人を雇い、その支払いや大根の買い付けに多額の現金を準備しなければならず、「金と人間がないと成りたたない。あとは一年分売るだけの量を蓄えておく施設がないとできない」仕事であり、その「蓄えておく施設」の沢庵も市場への洞察や相場をみての駆け引きによって、「だいたい夏を越して持っているのは、売れ残ったのをもっているか、計画的に持っているかのどっちかです」ということで、前者であれば損を抱え込んでいることになり、後者もいつ前者に転じるかわからない状態でもあった。暮れには、新沢庵ができることになるから、前年の残りものは安く売るしかない。
 この店は戦前は関西方面にも出荷していたし、昭和十八年に統制が敷かれる以前は、陸軍の要請で満州方面(中国東北部)にも出していたという。陸軍に出すための沢庵を作っていた農家は、小平に何軒かみられた。次の項でふれる米穀店も一時期はそうであった。ここで述べた店のような完成品ではなく、いわゆる生干しとして業者に売る例も多かった。小川のある家では、大半を練馬の問屋におさめたが、これは軽く漬けたもので、残りの一部を立川の陸軍の飛行場関連施設におさめていた。軍からは、塩の量など、保存性に関する指定書がきており、それにもとづいてこの家の戸主が塩加減など裁量して漬けていたという。近所の農家に指定された品種の種を配って作ってもらい、大根を貫単位で買い上げていた。指定された大根を作り、畑で洗って鮫(さめ)の皮でこすって筋を出す。そうすると乾きやすいという。それを朝に掛けて干すのは、登校前の子どもの仕事だった。前日の夕方にムシロの上に置かれ何枚にもかけられたコモを朝めくると、寒い時期のため大根から湯気がたちあがっていた。子どものころのそんな情景を記憶されている古老が小平にはいく人もいる。
 戦前、戦中は、主に軍関係への需要を前提に作られていた小平の漬物だが、戦後はまた別の形で発展してきている。とはいえ、製造、販売を一貫して行っている漬物店自体、東京都内では減少してきており、その一軒がここで述べた店になる。